LastUpdate 2011.7.13

J S M E 談 話 室

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本会理事が交代で一年間を通して執筆します。

No.98 「安全と安心」

日本機械学会第89期会長
佐藤順一((株)IHI 検査計測 代表取締役社長)

佐藤順一

 企業で働いていると、「安全」に関係する活動に積極的に参加しなくてはなりません。当社においても、6月に全社安全衛生大会を開催し、全国の事業所から管理職、現場、協力会社のそれぞれの代表が集まり、昨年度の安全衛生成績の総括と、今年度の安全衛生方針および施策を確認し、決意を新たにしました。企業にとって、従業員の安全は極めて大切で、作業中にカッターナイフで指を少し切っただけでも、躓いて転んで打撲を負っただけでも事業部長やその上までも上がる重大事になります。なぜなら、この安全の成績は、作業によっておこる事故の確率であって、安全を達成するためには、この事故の確率をできるだけ小さくすることが求められているからです。労働災害においては、有名なハインリッヒの法則というものがあり、それは、一つの重大な事故の背後には、29の軽微な事故があり、またその背景には300のヒヤリハットがあるというものです。リスクマネージメントにおいてはこの法則に基づき、できるだけ背景となるヒヤリハットを少なくする努力を行うとともに、万が一の時に重大な事故にならないように、物理的な対策をとることが重要です。たとえば、高所作業の時は、命綱を付け、万が一踏み外した時に最悪の事態を避けるようにしています。すなわち、絶対の安全は人間が作業行動をする以上、理論的に存在しないわけですから、安全の確率を高めること、または重大な事故にならないような物理的な対策をとることが、安全活動の要になります。これは交通安全に関しても同じ考え方だと思います。いかに安全の確率を高めるような交通ルールにするか、安全教育の充実を図るか、その上でガードレールなどの物理的な対策を取り、いかに重大事故を少なくするかということに努力がなされています。機械の設計・製造・運転に対しても、事故の起きる確率をどのように減らすかという観点から部品レベルで、また機械システムとして努力が払われています。航空機は確率的に他の乗り物より安全な乗り物であると言われていますが、それは、機械としてシステムとして故障・不具合の確率を極めて小さくする努力をしているからです。安全は確率ですから、科学・技術として対応することができるのです。

 さて、最近の新聞、週刊誌、テレビなどのマスコミにしばしば登場する言葉は、安全神話であり、安心です。これらは、どのような言葉なのでしょうか。まず、安全神話です。安全は科学や技術で語ることができるものですが、神話は科学や技術とは別な世界の言葉ではないかと思います。辞書によると、神話は「神をはじめとする超自然的な話」という意味の他に、「比喩的に、根拠もないのに、絶対的なものと信じられている事柄」と書かれています。したがって、安全神話は、科学的・技術的な根拠もないのに絶対的に安全だと信じられている事柄と定義されると思います。したがってこの言葉は安全に関する科学・技術とは異質の言葉ではないでしょうか。しかし、マスコミの人や専門家でない人にとっては、信じていた安全神話が崩壊したのは、これまで信じていた科学者や技術者が自分達をだましていたからだという思いなのでしょう。いったい誰が科学・技術としての安全を科学的根拠のない安全神話にし、多くの人をだましたのかという思いが残ります。また、この安全神話は、科学者や技術者の手足や思考を縛り、彼らの活動を無批判にある方向に向ける役割を果たすこともあることを見逃してはいけません。

 次に「安心」を考えてみましょう。辞書によると安心は、「心配・不安がなくて、心が安らぐこと、また、安らかなこと」と書いてあります。これは人の心の持ち方ですから、科学・技術で安心のことを語れるのでしょうか。安全は確率ですので数字で表すことができますが、安心は人の心の持ち方ですので数字で表すことができません。したがって、安心という言葉は、政治家、マスコミ、事業家にとって非常に都合の良い言葉なのでしょう。一見、安心を科学的に表現するために、たとえば「90%の人が安心だと思っています」、という表現を使うことがあります。これと全く同じ事柄は、「10%の人が不安に思っています」ですが、どっちの言葉がそれを聞く人が安心に思うか、または不安に思うかを考えてみれば、これが安心を科学的に表現したとは言えないでしょう。不安に思っている人の質問は、黒か白、すなわち100%か0%ですから、それを単純に工夫もなく安全確率で答えることは難しいでしょう。しかし、安全を科学的に技術的に詳細に説明すれば人々はわかってくれると思っている科学者・技術者は多数います。彼らは不安の本質を理解していないのではないでしょうか。不安のパワーは極めて大きいものです。不安の扱いを社会が間違えると大変不合理なことが起きます。また、不安はファッショに向かう原動力にもなります。

 最近ある書評でこの関係の本を見つけました。原題は「RISK, The Science and Politics of Fear」で、訳本が「リスクにあなたはだまされる、恐怖を操る論理」(ダン・ガードナー著、田淵健太訳、早川書房)です。我々機械工学者もこの分野を学び、社会にどのように機械工学・技術を発信していくか工夫が必要でしょう。

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