コンサートホールの音響設計技術の話題をめぐって

中村秀夫(株式会社 永田音響設計)

札幌コンサートホール"きたら"大ホール
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 昭和57年の大阪ザ・シンホニーホール、その後の東京サントリーホールのオープンを契機にして、この10数年間に全国各地に数多くのクラシック音楽専用のコンサートホールが誕生した。海外から来た音楽関係者が、日本はどこの地方公演に行っても音響の良い立派なコンサートホールがあることに驚くといわれるほど施設の充実ぶりはめざましいものがある。コンサートホールの建設ブームは、わが国における音響設計技術のレベルアップに大きく寄与したのはまちがいなく、来日オーケストラ関係者の口コミなどでこの分野のレベルの高さは海外にも知られるところとなっている。

 ホールや劇場の音響設計の目標は静けさと良い響きの実現にあるが、そのもっともシビアな性能が求められるのがコンサートホールである。以下に最近のコンサートホールの音響設計技術に関する話題と若干の私見を紙面の許す範囲で述べてみたい。

1.限りない静けさへ

 静けさはコンサートホールのもっとも基本的な条件である。演奏開始直前の指揮者がタクトを振り上げた一瞬の静寂、これもクラシック愛好者にとってはたまらない演奏の一部なのである。このときに僅かでも騒音が聞こえることは許されない。

(1)空調騒音の低減

 いまコンサートホールに求められる静けさは、"ほとんど聞こえない"を越えて"耳を澄ましても聞こえない"である。空調騒音の評価には人の聴感特性にもとづいたNC(Noise Criterion)値が用いられ、これまでの空調騒音の低減目標はNC−20以下が一般的であった。しかし最近はNC−15以下となり、この値は人の最小可聴レベルに近い。そしてNC−20とNC−15とでは数字上の差は僅かだが技術的な難度や所要コスト、設備スペース等の増加はきわめて大きく、結果としてコンサートホールの空調機械室はびっくりするほどの巨大な空間が必要となる。しかし、これは一般の聴衆の目には触れることがないので知る人は少ない。極限の無音状態に近い静けさの技術はもっとPRされて良いと思う。

(2)鉄道振動の遮断

 最近は駅周辺の再開発等により鉄道軌道の近くの敷地にコンサートホールが建設されることがめずらしいことではなくなっている。このような敷地条件では電車の走行振動が地盤を経由してホール駆体や内装に伝わり、ホール内に再放射される騒音が問題になる。対策が必要になるのは軌道からおおよそ100m位までの範囲で、もちろん発生源対策となる防振軌道とするのが理想であるが鉄道側の了解が得られるのはまれであるため、@敷地と建物駆体との間に防振構造を設ける、A建物駆体とホールとの間に防振構造を設ける、のどちらかが採用されることが多い。振動強度が大きい場合には両対策を併用する場合もある。この防振構造は僅かでもブリッジが生じると所期の性能が得られなくなるので、複雑な建築・設備との取り合いを注意深く行う必要がある。これも完成後は人の目に触れることはないが関係者の努力と工夫が注ぎ込まれてホールの静けさを支えているのである。

2.質の高い響きを目指して

(1)ホールの音響効果を決める初期反射音

 今世紀はじめにW.C.Sabine教授により定義された残響時間は、ホールの室内音響のほとんど唯一に近い評価量として現在も広く用いられている。この数十年間はホールの音響効果に関する評価量の研究が活発に行われてきたが残響時間の主役の座は揺るぎないのが現状である。このなかで近年、研究の成果があったのは側方からの初期反射音の重要さである。両耳に入る音の僅かな時間差が空間的な印象を左右するという知見は、音響設計技術を大きく前進させた。今では側方だけに限らず直接音到来後80ミリ秒位までの遅れ時間の初期反射音の分布状況が音響効果に深く関係することが明らかになっており、コンサートホールの室内音響設計のもっとも重要なテーマになっている。

コンピュータシミュレーションの結果例
(直接音到達後90msまでの反射音を表示)
3色が密に分布しているところ   響きが豊か
3色の分布が粗のところ      響きが寂しい
赤色:1次反射音,黄色:2次反射音,緑色:3次反射音
長いひげ:横方向からの入射,短いひげ:上方向からの入射
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(2)音響模型実験とコンピュータシミュレーション

 ホール内の音の複雑な現象をより直接的に把握できるスケールモデルによる実験はすでに数十年前から行われている。模型実験では物理パラメータだけではなく、インパルス応答を実時間に変換してエコーや演奏音を直接耳で聴くことができるという利点がある。しかし、製作費、保管場所代等のコストがかかること、模型を製作するには設計図が完成していなければならない一方で、実験の結果を設計に取り込める工期的な余裕が必要なこと、等から通常の建築工程に乗りにくいという問題がある。

 これに対してコンピュータシミュレーション(以下CS)の実用性は高まっている。基本計画段階で初期反射音を対象としたホール形状の詳細な検討ができるのは模型実験にはない大きな利点である。しかし、いくら性能・機能が進化したといっても要はその使い方である点は今も変わっていない。私どもの事務所では図に示すように、音線法により客席面に到達する反射音の方向、本数を観測する方法を採っている。重要なのはCSを実施したホールに聴衆として出かけていろいろな席で実際に演奏を聴き、CSの結果と比較することである。我々は海外も含め多数のホールについてCSとコンサート試聴の比較検討を行ってきた。その結果、いまでは設計実務用になくてはならないツールになっている。

3.ステージ音響研究の現状

 音源となるステージまわりの条件がホールの音響にとって重要であるにもかかわらずこれまで体系的な研究はされていないに等しい。ステージは床の構造がチェロなどの楽器には"鳴り"に直接的に関係するので演奏者の関心も高い。一例を挙げれば、床仕上げ材の横貼りと縦貼りとでは音が違うという演奏者からの指摘があるが、これに適切な回答ができるデータはない。楽器の配置や床からの高さによる音の違いなども同様である。また、ステージの音場に目を向けてみても楽器や編成の違いなどに技術的にきめ細かく対応できるレベルには至っていない。ステージ音響の分野は今後のホール音響設計の鍵を握っているといってよい。

4.シューボックス形とアリーナ形

 ウィーンの楽友協会大ホール、ボストンシンフォニーホール、アムステルダムのコンセルトヘボウは音のよいホールとして知られている。これらはいずれもシューボックス形(直方形)で、たしかにこの形状は音響効果に深く関与する初期反射音に関して有利な条件を備えているが規模的に1500席程度までが限界といわれている。1963年、当時の西ベルリンに完成した2335席の新フィルハーモニーがアリーナ形という世界で初めてのコンセプトによりこの壁を破り音響的に成功を納めた後、国内外に多数のアリーナ形の大型コンサートホールが誕生した。アリーナ形ホールの音はシューボックス形ホールの芯のある端正な響きとは異なり、広がりのある華やかな響きの傾向があるように思う。もちろん好みが分かれるところであるが、音響に関して2000席を越える大規模コンサートホールがシューボックス形と比肩しうる評価が得られているのは音響設計技術の成果であろう。音響に直接の関係はないが、指揮者の表情が見えるpodium席の存在もシューボックス形にはなかった楽しみをもたらしたし、シューボックス形がどちらかといえば格式の高さを感じさせる雰囲気に対して、アリーナ形は開放的な雰囲気を感じさせるのも人気の一因といえよう。

5.ホール竣工後の音響チューニング

 どんなに優れた演奏者が来ても竣工後すぐに最良の音響を聴衆にサービスすることは不可能に近い。楽器配置、雛壇や反射板の高さ等の最良条件を見い出すのに日時を要するからである。竣工後数ヶ月はリハーサルにおいてのこれらのきめ細かい調整・設定(チューニング)が必要で、その際に音響設計者のアドバイスも欠かせない。しかし、音響設計業務は竣工時の音響測定をもって終了するため、一般的にはこの期間の音響設計者の関与はない。我々は、その重要さを知るが故にボランティアで協力しているが、音響設計業務がチューニングまで必要なことを関係者に理解されるよう願っている。また、チューニングは建設段階のエンジニアリング業務と異なり、ほとんど感性による試行錯誤の作業である。これを音響設計の中にどのように体系化していくかが課題と考えている。

6.音楽家とのコミュニケーション、コンサート体験の重要さ

 音響設計者としては、担当したホールが音楽家や演奏家にどのように評価されるかは大きな関心事であるとともに、つぎの業務の貴重な情報源にもなる。したがって、実際にコンサートを聴き、演奏者の評価を聞くことがなにより重要なことはいうまでもない。しかし、音響設計業務は竣工により完了するので、極端にいえば、竣工後の演奏や出演者の評価を聴く機会を持たなくともやっていけるのである。これが高じると物理量だけでホールをランク付けしようという発想になりかねないし、現にこれに近い試みも一部にみられる。いろいろなホールで多くのコンサートを聴くと、このような試みが現在の技術レベルではいかに無謀なことかが分かる。これが可能なほどコンサートホールの音響は浅いものではない。コンサートを数多く聴くなかで実際の演奏音に対する自分の評価スケールができ、これが音楽家とのコミュニケーションの役に立つ。この積み重ねが音響設計のレベルアップに大きな力になることを確信している。


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