2002年11月号特集

特集1.「生体内の流れ」

1-(1)「リアリステイク血管モデルにおける流れ」
 慶應義塾大学理工学部システムデザイン工学科 谷下 一夫

1-(2)「血管壁表面の糖鎖の力学的役割」
 関西大学工学部教養物理教室 関 眞佐子

特集2.「スポーツと流れ」

2-(1)「スポーツボールの流体力学」
 福岡工業大学工学部知能機械工学科 溝田 武人

2-(2)「スキージャンプ飛行の最適化」
 山形大学教育学部 瀬尾 和哉

2-(3)「競泳用水着開発の流れ」
 筑波大学体育科学系 高木 英樹
 三重大学工学部エネルギー環境工学研究室 清水 幸丸

2-(4)「卓球ボール径変更(38ミリから40ミリ)裏話」
 大阪大学大学院工学研究科機械物理工学専攻 辻 裕

3. 部門同好会報告

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血管壁表面の糖鎖の力学的役割

 関西大学工学部教養物理教室 関 眞佐子

1.血液は滑らかに流れているか

 今秋ある学会で,他分野の先生から「血管内の血液流れは人工物に比べ抵抗が小さいそうですね」と話しかけられた.近年出版された科学雑誌の「生物の巧妙な仕組み」を述べた記事の中にも,「毛細血管は数μmという非常に細いサイズにもかかわらず,血液は詰まることなくスムーズに流れる」という記述がある.血管内の血液流れは同じ径をもつガラス管内に比べて流れ易いという印象を与えているようだが,実はこれは誤解である[1].このような誤解が生じた原因を考えているうち,ひょっとしたら,現在私達の研究領域で話題になっている血管壁表面の糖鎖の存在が関係しているかもしれないと思い当たった.
 生体内の様々な細胞の表面から高分子の鎖が細胞外に向かって伸びていることが知られているが,血管内皮細胞(血管壁の最も内側の細胞)の表面にも糖鎖の層が存在し,特にglycocalyxと名付けられている.glycocalyxが血管壁からちょうど髭のように伸びている様子を想像して頂きたい.上に述べた誤解は,このようなglycocalyxの存在が,マグロやカツオなど高速魚の多くが体表から高分子体液を分泌して摩擦抵抗を大幅に減らしている,いわゆるトムズ効果[2,3]を連想させたために生じたかもしれないと思う.
 遊泳している高速魚の体表から分泌される高分子は,体表面の乱流境界層内部で流れ方向に長く引き伸ばされるので,運動エネルギーが身体表面に垂直な方向へ運ばれるのを抑制して,消費される運動エネルギーを減少させる.その結果水の抵抗は小さくなり,魚は速い速度で泳げることになると理解されている.一見,高速魚の体表から分泌される高分子と血管壁表面の高分子と同じ働きをしているように見えるが,その違いはレイノルズ数を考えると明らかであろう.高速魚の場合,代表長さL=0.5m,代表速さU=10m/sとすればレイノルズ数であるのに対し,毛細血管内流れの場合,L=10μm, U=1mm/sとしてと評価される.血管内では乱流境界層はできないので上の論理は適用されず,glycocalyxはむしろ障害物となって,流れを妨げているのは容易に理解されるだろう.実際,次節で定量的に示すように,glycocalyxによる血管抵抗の増加は細い血管では無視できなくなる.

2.速度分布と血管抵抗

 glycocalyxの構造の詳細は分かっていないが,様々な研究により,高分子が絡みあって網目に似た構造を作っていると推定されている.従って,その中の流れは第1近似として多孔質内の流れに近いと仮定でき,流体には速度に比例する抵抗が働くとして取り扱うことができる[4,5].先のレイノルズ数の評価から明らかなように,微小血管内流れにおいて慣性は無視できるので,流体の運動は,Stokes方程式に速度u に比例する抵抗-Ku を加えた,いわゆるBrinkman方程式:

(ただし,glycocalyx内で K, その他で K=0)に従うことになる.ここで,p は圧力,μ は媒質の粘性率,はglycocalyxの抵抗係数を表す.
 円管の内壁表面にglycocalyxが一様な厚さで存在する場合を考え,媒質の速度分布と血管抵抗(=圧力損失/流量)を調べよう.管軸に沿って一定の圧力勾配があるときに起こる軸対称な流れに対しては,Brinkman方程式は変形Bessel関数を用いて解析的に解くことができる.円管の半径が3μm,glycocalyxの厚さが0.5μmの場合に,解の例を図1に示した.
 Brinkman方程式から厚さの次元をもつが定義されるが,図1の曲線は,様々なδに対する速度分布を,圧力損失が一定の場合に描いたものである.glycocalyx表面付近では,円管中心部の放物型の速度分布からglycocalyx内の速度分布へ,ほぼδの幅で移行しているのが分かる.
 glycocalyxの抵抗係数の直接測定はないが,様々な研究から程度と見積もられている[5].この値と,粘性率を用いると,となる.これに相当する図1の赤い点線の曲線から,glycocalyx内の流れは非常に遅く,(同じ圧力損失の)Poiseuille流れ(実線)に比べ中心流速が約25%小さいことが分かる.速度分布から流量を計算すると,glycocalyxがない場合に比べ約43%の減少となり,従って血管抵抗は75%程大きくなる.血管抵抗の増大は,glycocalyxが厚くなるほど,或は血管径が小さくなるほど著しくなることも容易に分かる.

図1 半径3μmの円管の内壁に厚さ0.5μmのglycocalyxが一様にある場合の速度分布.ただし,同じ圧力損失をもつPoiseuille流れの中心流速で規格化してある.
点線:=0.1μm,2点鎖線:δ=0.2μm,1点鎖線:δ=0.5μm,破線:δ=1μm,実線:δ=∞(Poiseuille流れ).

3.glycocalyxはなぜ存在するか

 前節の簡単な解析から明らかなように,glycocalyxの存在は血管抵抗を増加させるので,流体力学的には不都合である.前節では媒質のみの流れを取り扱ったが,これに血球が混じって流れている場合にはglycocalyxの存在によって(流量=一定とすると)血球に加わる応力が増大することになり,血球に対しても具合が悪い[6].生物は何億年もの時間をかけて進化してきたのであるから,glycocalyxにはこの不利益を補う以上のメリットがあると考えるのが自然であろう.このメリットの解明は,現在多くの研究者が挑んでいる研究課題である.
 力学的観点だけに絞っても,(1)血球が循環する間,血管分岐や血管内腔の凹凸によって受ける応力変動の幅が,glycocalyxの変形によって緩和される等,血球へのメリット[7,8],(2)血管壁(内皮細胞)への力学的,化学的刺激が血液から直接ではなくglycocalyxを通して(ひょっとしたら増幅して)伝達される等,情報感知に関するメリット[9-11],(3)血管内と血管外組織との間の物質輸送に,分子サイズによる選択的透過性,すなわちフィルター的な役割を果たす等,物質輸送へのメリット[11],など様々な可能性が指摘されているところである.
 血管は血液をただ通している管ではなく,種々の刺激に能動的に反応して,いろいろな物質の産生,透過性,増殖能の変化や遺伝子の発現など様々な機能変化を起こす[12].その変化は,血管径の調節による血流分配の制御や免疫機能など,生命維持ための基本的な働きを担っており,さらに動脈硬化,高血圧など種々の病変の発症,進展とも密接に関係している.glycocalyxはまさにその情報を受け取る受容体のところに存在している.また,血液循環の本来の目的である血液と血管外組織との間の物質輸送も,glycocalyxを通して行われる.その他,臨床面を含めた様々な観点からの重要性により,glycocalyxの果たす役割には多方面から大きな注目が寄せられている[5].現在,世界中で多くの研究者がglycocalyxの研究に精力的に取り組んでいるので,新たな「生物の巧妙な仕組み」が明らかになる日もそう遠くはないと期待できよう.

4.文 献

[1] 関眞佐子, 混相流, 16 (2002) 120-129.
[2] Toms, A.B., Proc. 1st Int. Rheol. Congr. North Holland Pub. Co. Vol.2 (1949).
[3] 永井貫, イルカに学ぶ流体力学, オーム社 (1999).
[4] Damiano, E.R., Duling, B.R., Ley, K. and Skalak, T.C., J. Fluid Mech. 314 (1996) 163-189.
[5] Pries, A.R., Secomb, T.W. and Gaehtgens, P, Pflugers Arch-Eur. J. Phisol. 440 (2000) 653-666.
[6] Sugihara-Seki, M., Proc. 4th World Congr. of Biomechanics (2002) CD-ROM.
[7] Secomb, T.W., Hsu, R. and Pries, A.R., Microcirculation 9 (2002) 189-196.
[8] Feng, J. and Weinbaum, S., J. Fluid Mech. 422 (2000) 281-317.
[9] Secomb, T.W., Hsu, R. and Pries, A.R., Biorhelogy 38 (2001) 143-150.
[10] Mulivor, A.W. and Lipowsky H.H., Am. J. Physiol. 283 (2002) H1282-H1291.
[11] Weinbaum, S., Annal. of Biomed. Eng. 26 (1998) 627-643.
[12] 安藤譲二, シェアストレスと内皮細胞,メディカルレビュー社 (1996).


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