社団法人日本機械学会

企業トップ技術者から就職を目指す
学生へのメッセージ

日本機械学会 第87期会長
株式会社東芝顧問

有信睦弘

流体力学を学び博士課程まで進んだ有信睦弘会長は、修了を控えた秋に突如就職へと進路を変更し、博士課程修了後、現在の(株)東芝へ就職した。当時博士課程の学生が企業へ就職することは少なく本人にも不安があったが、就職後、研究開発の第一線で活躍し、執行役員までなられた。先輩機械系技術者として、社会へ出てからのさまざまな経験や大手電機メーカー役員を経験した目から見た今の若い技術者(学生)への期待やアドバイスを伺った。


専門は流体工学。1976年東京大学工学研究科博士課程修了後、東京芝浦電気(現:東芝)入社、入社後研究所に入り、社会人の一歩を踏み出す。その後、技術開発に関わる研究に従事し、執行役常務・研究開発センター所長、同・経営監査部長などを経て、現在東芝顧問。本会には1971年に入会、現在フェロー。各種委員会の委員を経験し、評議員、理事、副会長などを歴任し、2009年度会長。経団連や政府の委員としても活躍し、テレビ出演や講演なども多数。
聞き手 久保司郎広報理事(大阪大学)、寺本進会員部会委員(東京大学)

ドクターコースから企業へ

Q 有信会長は博士課程に進学しながら、当時ではめずらしく企業の技術者の道を選ばれたそうですが、その経緯(いきさつ)とその理由はなんでしょうか。

 大学のドクターコースでずっと研究をやっていて思ったのは、大学は非常に狭い範囲の研究で、方法論もさまざまな現象もある意味でパターン化されてしまうということした。私が大学時代にやっていたのは乱流境界層の研究ですが、何を測定して、どういう無次元数で整理をし、どういうグラフを描けば今までの研究に対して何か新しいことが言えるか言えないか、そういう研究の定石がほぼ決まっているわけです。定石が決まっているものは延々とやっていてもどんどん狭い範囲に行くばかりなのですが、企業に就職して定石が決まっていないようなものに自分がチャレンジできるかどうか、また、それだけの能力が自分にあるかどうかというのは非常に冒険であり、ものすごく不安でもありました。ただ、大学の状況を見ていて、大学よりは企業の方が何か可能性があるだろうと思って企業へ行くことにしたのです。
 それから、当時は第1次オイルショックの後で、研究に近いことで技術的にある程度高度なことをやれるのは大企業しかなかったのです。オイルショックの後ですから、国の研究所の多くは採用を絞り込んでいましたし、大企業も、その年は悪いことに日立製作所も採用なしというような状況でした。当時、ドクターコースを出て会社に就職する人はほとんどいませんでした。私が論文の予備審査の日程を決めましょうと言われたのが10月ごろで、それまでは就職活動なんてとんでもないという話でした。大学に残るのだったら、ある程度の期間を見て、ポストのあいているところを探せばいいわけですから。それで突然「私は会社に行きます」と言ったら大騒動になってしまうわけです。結局、可能性があるのは東芝しかなかったわけです。

Q 企業に入られての研究開発の醍醐味をとはなんでしょうか?

 会社に入って最初に与えられた仕事は商業用原子炉の安全性評価にかかわる仕事でした。乱流境界層をやっていた私のような人間にとって、原子力発電所で事故が起きたときのさまざまな現象を考え、今の原子炉が安全であるかどうかを評価しなければいけないということは、まるで違うものにゼロからチャレンジしなければいけないということでした。但し、それがすごくよかった。
 どうしてかと言うと、そういうものに対する定石を知らないわけです。定石を知らないから、ゼロベースから考えざるを得ない。今までやっている人がほとんどいない領域だから、自分で論理を組み立てて、何が問題であるかという問題設定も自分でやるというように、全部、一からやらなければいけない。普通だったら、過去の山のような論文をひっくり返して、それをサーベイしていくわけだけれども、それもできない。
 結局、全部、自分で考えてやりました。やっているうちに、結果をまとめて学会に出せる形にしようかということになるのですが、今度は出す場所がない。原子力学会があったけれども、そこでもあまりこういった発表は聞いたことがないので、機械学会のどこかに出そうということになり、熱関係の部門に出しました。そこで発表したのだけれども、注目もされず、“部外者が来て一体何をやっているのだ?”みたいな感じでしたね。
 しかし、ちょうどその時、アメリカの規制当局とGEのデレゲーションが日本に来ていました。大問題になっていた現象ですから、彼らは原研へ行って、日立へ行って、そして東芝にもやって来ました。私は会社に入って1年しかたっていなかったのですが、説明をしたら、それがものすごく注目されたのです。その後、GEのほうから金を出すから説明資料をくれと言ってきたので、東芝の事業部は「今までGEに金を払ったことはあるけれども金をもらったことはない」ということで、みんなびっくり仰天でしたね。(笑)
 その後は事業部から湯水のように研究費が来るようになり、自分で考えたシナリオどおりの研究をどんどん進められるようになりました。そうすると、常に先手が打てるようになります。この問題については原研でもGEでもフルスケールの実験がはじめられ、世界のいろいろなところでかなりのお金を投入されはじめました。ただ、私たちはすでに先手を打っているものだから、その後も常に先手が打てたのです。日本での評価基準を決めるというときには、8年ぐらいかかりました。その間、どちらかと言うと東芝がずっとリーダーシップをとりながら進められました。それが私にとっては非常にラッキーな展開でした。ですから、今まで自分がやってきたことと違う仕事に取り組まざるを得なかったからというのが一番の原因ですが、むしろそれが非常にラッキーだったということです。
 企業での醍醐味はもう一つあって、企業には人はいないけれども、設備と研究費があります。今は不景気で状況も多少変わってきていますが、設備と研究費があるから、自分だけではできない部分をどうやってほかの人に頼むか、それを考えなければいけない。研究の仕方という意味では大学での研究と随分違うやり方をせざるを得ないけれども、お金と設備を使うという醍醐味はあります。たとえば、乱流境界層のスペクトルをとるのに、大学にいたころはバンドパスフィルターで一生懸命測定して、プロットしてスペクトルをとっていたのが、会社に行けばFFTの機械があって、ポッと入れればスペクトルの絵が自動的にポッと出るじゃないですか。つまり、効率が全然違うわけです。そうすると、そこのところにかける時間を別に使えるわけですね。そういう意味で、時間の使い方とか人の使い方が大学とは全然違います。違う研究のやり方を追究せざるを得ないわけですが、それは企業でやる研究の醍醐味ですよ。
 結局、いろいろな人がやっている結果もダイナミックに吸収していかないと先へ進めない部分があるわけです。だから、世界中でやっている実験結果とか企業の中でやっているデータ、そういうものすべてが駆け巡る。いろいろな研究者がやっているものが参考になるし、色々なアプローチの仕方もどんどん出てきます。


<<前のページ