小竹進先生追悼記事

小竹進先生のご逝去を悼む


熊田雅彌(岐阜大学)


 昨年11月10日に東工大の井上先生から小竹先生ご逝去のご連絡を受け驚愕しました。 というのも、その年の夏に先生にお願いして、岩城先生(富山大学)と八田先生のご令嬢と一緒に、ピレネー山脈に連れて行って頂いたからです。ロッククライミングのベテランであった先生には、さほどの山ではなかったようですが、ピレネー山脈を眺めるつもりの私には大変でした。でも、私達のために山岳ドライブの神風ドライバーを長時間なさり、私達を山頂に案内して下さった時はとてもお元気でした。その先生が帰国後立山に入られて、返らぬ人となられたと聞いて信じられないだけでなく、ご苦労をお掛けしたのではないかと一瞬後悔の念が過ぎりました。ただ、ご一緒の間ホテルは同室でしたので、ゆっくり色々なお話をすることが出来たのが、何よりの思い出です。

 先生とお話しする機会を持つようになったのは、亡くなられた土方先生を通してです。その頃、お酒も飲まれないだけでなく、カラオケ等の遊びにも全く興味のない先生でしたので、学問以外世俗的なことに無縁の“仙人”というニックネームがありました。しかし、人に必要以上に気遣う等、学問での厳しさから想像できない優しい人でした。  先生がここ数年「学会」に情熱を失ってしまわれたのは、土方先生という“相棒”がいなくなったことによるのでしょうが、国立大学の法人化という大きな状況変化だけでなく、学会の講演会に象徴される学会の運営・活動の変質が原因ではないかと思われる。特に、伝熱研究会の法人化(日本伝熱学会)と、同時に論文誌(Thermal Science and Engineering)の発足に尽力されたにも拘らず、退会という形で締め括られたのは“諦め”に近いものがありました。それまでは、無駄と知りつつも学会や研究のあり方に警鐘の原稿を何度も書かれた。だから、晩年は自己の世界に埋没するかと思ったのですが、「美と感性」なる本を執筆されてからピレネーお出でになる情熱がありました。

 先生は「論文」は“文化”であると言われた。ここで、「論文」とは個人の論文ではない。「学会」の論文集に集約される「論文」のことです。また重要なことは、“文化”であって、“文明”ではないことです。辞書を引くまでもなく、前者は、人類が自身の手築き上げた有形・無形の成果の総体で、世代を通して伝承されていくもので精神的所産を重視、これに対して後者は、人間の知恵が進み技術が進歩し便利で快適な面に重点があり、時代・地域とも限定され、経済・技術の進歩に重点がある。とても私が如き者に十分理解できなかった。これに先生は、「大学の研究」と「会社の研究」の相違は何かとも問われた。教育費は国から支給されても、研究費は支給されていない現状で、地方大学の教員は“基礎”的分野の研究に結果的にはなってしまいます。これに対する“ぼやき”は、早稲田大学の勝田先生の伝熱の「論壇」“戦略と戦術”(「伝熱」 Vol.45,No.190,2006.1,日本伝熱学会誌)をぜひ読んで頂きたい。きっと、先生は笑って、だから・・・・と言われるような気がします。

 最後に、追悼文に相応しい言葉を捜したのですが、葬儀すら拒否された先生に、一言「さようなら」と申し上げ、一つの「時代」の終わりを感じた私に、土方先生のお嬢さんから頂いた慰めの言葉を付記して、終ります。

―“小竹先生はきっとこの世でのおつとめを終えられたのだなあと感じています。ご本人には色々と気がかりなことがあったとは思いますが、きっと大きな流れの中ではそうなのだろうと思います。 父の死もわたしは、この数年間でそのように解釈するようになりました。”

目次へ戻る