LastUpdate 2012.1.16

J S M E 談 話 室

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JSME談話室「き・か・い」は、気軽な話題を集めて提供するコラム欄です。
本会理事が交代で一年間を通して執筆します。

No.104 「海外進出大作戦・・国際経験から学んだこと」

日本機械学会第89期編修理事
成田吉弘(北海道大学 教授)

成田吉弘
講義後の還暦祝いサプライズに感激(2011.6)

新年を迎えました。昨年は日本にとり,大変な災害の年となりましたが,今年は少しでも明るい話題に満ちた年になって欲しいものです。この機会に,コラム欄談話室「き・か・い」のバックナンバーを拝見しました。それぞれ内容の濃いエッセイで,著者の方々の考えの深さに頷くばかりでしたが,留学経験に関する話題がありませんでした。そこでコラム欄の趣旨を汲んで,留学に関する気楽な話題提供をします。もっとも私は外国に長年住んだわけではありません。むしろ日本では札幌しか住んだことがないという,東京を原点とする座標系では,極めてローカルな生き方しかしていません。しかし札幌の地から海外に強い興味を持ち続けた者として,その経験が参考となればと思い,若い読者を念頭に書かせてもらいます。

ヒッチハイクからアメリカ留学まで
私が初めて海外渡航を経験したのは,1975年の博士課程1年の時でした。その前,学部2年の春休みにはヒッチハイクにより26台の車を乗継ぎ札幌から東京まで行くなど,もともと旅行(放浪?)に関心がありました。親から航空券代を借り,一番安いアエロフロート(冷戦時代,シベリア上空を通過できるメリットがあった)の券を生協で買いました。一番安くとも,30万円という今の物価でも高い金額でした。一切の荷物をバックパックに担ぎ,一か月余り西ヨーロッパを,パンをかじり貧乏旅行しました。1USドルが270円,1英ポンドが400円ほどと,今とは比較にならない為替ハンディのもと,様々なトラブルに祝福されながら,何とか無事に帰国しました。ドイツやフランスの肥沃な大地を見た後であり,飛行機が日本上空にさしかかった時,「山ばかり!資源もない日本,かわいそう」と感じると同時に,逆に日本の持つ人的資源を誇りに感じました。それが大学の教師になりたいと思ったきっかけかもしれません。

北大の入江敏博教授の丁寧なご指導の下で博士号の目途も立ったところから,アメリカに留学したいと思い,博士課程3年にロータリー財団から1年間の留学奨学金を頂きました。私のテーマは平板の振動解析でしたが,修士からバイブルのように使っていたモノグラフ「Vibration of Plates」の著者とはどんな人かと思い,オハイオ州立大学(OSU)の工業力学科のProf.Leissaに手紙を書き,ご快諾いただきました。それが35年間にわたる彼との師弟関係の始まりです。10ヶ月の滞在中に,3編ほどの論文を書きました。人間としても尊敬する彼との繋がりは今も大きく,来年2013年にイタリアである第9回連続体のシンポジウムのGeneral Chairmanになるのも彼の推薦によるものです。

就職から数学科留学
1979年,後ろ髪を引かれながらも,北大の博士課程に帰り,翌年に入江研究室で博士号をいただきました。1960年代から70年代への工学部大拡張期は既に終わっており,北大には全く空ポストがなく,全国どこでも,場合によって海外かと思いながらも,突然に地元の私立工業大学の計算機センターから話があり常勤講師として就職しました。様々な学科のコンピュータ演習やカードリーダーの紙詰まりを直しながら,論文を書きました。この頃は,単名の論文ばかりで,日本機械学会論文集の掲載料が出せない(研究費は年間20万円位だった)ので,掲載無料の海外英文誌にばかり投稿していました。学内の若手教員の海外派遣制度に応募したいと思いましたが,学科所属でないためサポートしてくれる学科長もいず,学外の補助金申請も許されませんでした。その後,幸い若手研究者の成長に理解ある学長に代わり,就職5年後にようやく助教授に昇格と同時に1年間の海外派遣が許されました。

その頃は,解析をしていても数学力の不足を感じていたので,それなら数学科の大学院に留学しようと,じつに単細胞的な発想をしました。私には数学専門教育を受けた実績がないため,入学許可を得るため,青函連絡船に揺られて米軍三沢基地で行われたGRE(米国の大学院に入るための共通試験)を受け,なんとかOSUの数学科に受け入れられました。それも前回留学時に知ったOSU数学科教授の原田先生のおかげです。本当に人のつながりは,ありがたいと思います。こうして家内と生後2ケ月の長男と共に,1985年に,再びオハイオ州コロンバス市の地を踏みました。数学の基礎は大別して,代数系と解析系に分かれます。ある程度の準備はしていたものの,才能もなく学部で数学科を出ていない身には,解析系はまだしも「群論」などの抽象的な代数はチンプンカンプンでした。例えて言えば,家に入りたいのに,周囲をぐるぐる回るだけ,中に入れてもらえない状態です。たくさんのHome Workを抱え,もういよいよ明日で力尽きるかと毎晩のように考えました。

日本ほど縦割りではなく,応用数学にも重点を置く米国では,数学科に非線形振動の講義がありました。前回時に工業力学科でも,非線形振動の講義をとっていましたから,両者の視点の違いは面白かったです。また数学科院生のTA(授業料が無料になる)として,学部1年生に数学演習を教えました。これは教育歴のある年の功で,1年生には評判良かったと思いますが,期末や中間の採点基準の説明に対して,「その説明では,自分にもっと点数がつくはずだ」の類のやり取りが頻繁にあり,その真剣さと点数に鷹揚な日本の学生との違いを感じました。結局,1年間の数学科留学で,「数学のロジックで,はるかここまで到達できる凄さ。でも数学で手も足も出ないこともある」と数学万能マインドコントロールからの解放と,「自分が劣等生になり,できない学生の気持ちが理解できた」などの教育面の収穫(?)を携え,帰国しました。研究面での進展はありませんでしたが帰国後に,群論の教材に出てきたビーズの組合せ問題(色の異なるビーズで作られたネックレスに回転や表裏返しを許す時の組合せ数算出)の方法を使い,異方性を持つ平板が異なる境界条件下で生じる振動特性の組合せを固有振動数から検証する論文を出しました。

学振で英国に
それから時代は,さらに17年ほど飛びます。もう50代になろうとする頃,もう一度海外,しかも今回は歴史ある英国に学びたいと考えました。しかし日本の大学では,何年かに一度自由になるsabbatical yearの制度はほとんどありません。私のいた大学でも,勤務年数に関わりなく,海外派遣は一度でした。それを突破するには,何か権威のある助成が必要と考えました。幸いに学術振興会の英国の長期派遣(1年間)に応募が許され,一度で採用されました。理,農,医など理系全分野で年間8名程度だったと思いますが,過去3年間の派遣者リストを見ましたが,私学の人は誰もいませんでした。いまでも私を選考してくれた委員の方々に万一会えたら,平伏してお礼を言いたいものです。

次の出発前の問題は,講義負担です。他の先生方も忙しく,代わりは頼めません。そこで講義を全て前期4ケ月に集約や交代をしてもらい,1年分を教えることにしました。今でも自分の研究室に張り,忙しいと文句を言いたくなると見るようにしていますが,私の名前が5日間にわたり毎日2,3コマ,記された時間割です。週に13コマ(1コマを除き学部)に耐え,声(ノド)を持たせるため,講義残りの30分はなるべく学生に演習等をやらせて声を出す時間を減らす作戦をたてました。このため,早めに講義資料と演習などの印刷物を刷り,必ず2日前に講義準備を終わらせる方針としました。それでも疲れた時は,これが終われば英国に家族と行けると我が身を納得させて頑張りました。英国では4ケ月ずつ湖水地方に近いLancaster大学とLondon市内のImperial Collegeに滞在しました。それぞれの大学の先生と合わせて3編の論文を書きました。なるべく折衝の上,子供も地元の学校に入れさせてもらいました。研究面と生活面で,様々な貴重な経験をしましたが,24年間の在職中,2回の海外渡航を許してくれた北海道工業大学に深く感謝しています。

おわりに
8年前から,私は北大の教授として,海外の機会に関して恵まれた環境にある若手教員や大学院生を見ています。英語会話を学ぶ環境も大きく変わりました。昔はNHKのラジオ講座や簡単な教材しかありませんでしたが,今は様々に工夫された教材があります。またインターネットのおかげでPCに向かい雑用をしながら,英語ラジオのニュースを聞けます。残されたのは,個人の関心と努力だけです。外国語会話は,スポーツに似ていると思います。普段の地道な練習と,対外試合の実践の繰り返しで上達します。今は,海外経験の豊富な若手研究者や帰国子女も多く,私から見てnative speakerに近い先生もいます。学生の海外インターンシップの機会も増えましたが,北大工学系インターシップを担当するCEEDのポスターの言葉を借りれば,「世界で戦える人になろう」と思う若者がもっと増えてほしいです。「今の若者は・・」と言うつもりはありませんし,将来や就職の心配は解りますが,長い目で見れば大きな財産になります。糸川英夫は「人間は逆境で成長する」と言いましたが,海外経験はいわば人工的な逆境です。私の研究室でも留学生の他に,インターンシップを今年度4人受け入れ,2人を米国とFinlandに2ヶ月間送り出していますが,彼らの帰国後の姿を見るのが今から楽しみです。

まず未知の世界に一歩踏み出すことです。

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