社団法人日本機械学会

技術者に求められること

Q 企業に入られて大学での経験は役に立っているのでしょうか

 博士課程では、全く訳の分からないことに取り組めと言われるわけですよ。我々の時代の指導教官は、とりあえずテーマだけポンと与えて、こうやれば論文が書けるというような指導はない。テーマを与えて、できなければ「お前が悪い」。どういう出来具合にすれば論文として認めてもらえるのか、全くわからない中、悪戦苦闘しながらやりました。
 だから、研究室の中で毎週毎週、研究の進行状況を発表していろいろディスカッションする中から、いろいろなサジェスチョンが得られたり、みんなで全く関係のない文献を持ってきて輪講をやったり、そういう訓練を自分たちでやっていました。そのことはすごく役に立っている。だから、わからない問題に対応するときに、どこを調べればいいかとか、どういうとっかかりで行けばいいかとか、そういう発想を訓練されるわけです。もちろん間違えている部分もありますが。

Q 企業の研究所に入ってくる新入社員に求める資質は、専門性なのか、それとも今お話があったような答えのない問題に対応する能力なのか、どちらでしょうか。

 研究所に行く人はそういう問題に対応する能力を持っていないと困るけれども、設計にはある程度の専門性があったほうがいい。ただ、設計をやるのも研究をやるのも、新しいものをつくろうと思ったときに専門性だけに頼ってやっていたら、そこの範囲から出ないわけです。それを超えるものをつくろうとするのなら、やはり常に新しい問題意識を持っていることが重要です。
  企業がいいのは、いろいろな専門分野の人たちが狭いところに集まっている点です。そうすると、とりあえずはいろいろな発想にぶつからざるを得ない。場合によっては、みんなが違うことを言います。そうすると、そこで自分の殻を打ち破れる可能性が高くなる。そこが大学と違うところです。大学の研究者がものすごく苦しいのは、そういう自分の殻を打ち破る場面が少なくて、自分の能力だけで先へ進んでいかなければいけない部分が多いからです。企業の場合は外的にしかも無理やり気づかせられるようなところがあるから、その部分は有利ですね。それを生かせるか生かせないかは本人の問題だと思いますが。

Q 東芝のように大きな会社ですといろいろな分野の専門家が企業の中に集まっているわけですが、いろいろな情報を得るときは、同じ会社の中の専門家に当たるのか、それとも外の学会のようなところに出ていって当たるのか、今までの御経験ではどちらのほうが多かったでしょうか。

 両方です。企業の中だから、まず会社の中でそれぞれの専門家のところへ聞きに行きます。大概は役に立たない。(笑)だから、学会関係のつてで、国の研究所の人や大学の先生等、その専門をやっている人たちに直接教えを請いに行ったりしましたよ。
 それから、そういう問題がだんだん大きくなってくると国際学会をやるようになるのです。一つの国だけでは研究者がいろいろな情報をぶつけ合えないので、その問題の周辺も含めて、ある程度大きな単位にして国際学会を開くようになります。そうすると、国際学会に行って議論する中で、もっと広がりますし、いろいろ専門家の意見が聞ける。
 問題意識が同じところで悩んでいる人が議論すると、お互いにものすごいインスピレーションが得られるときがあります。本当に悩んでいるところで発表があり、実際にディスカッションをしていると、それだけで突然、目からうろこが落ちるといったことがあったりするわけです。若い人にはぜひそういう経験をしてほしいですね。
 目からうろこが落ちるといえば、もう一つおもしろいことがありました。当時ものすごく悩んでいる問題があり、それは、水の中で蒸気がポンとつぶれるときの現象を三次元でどうやって扱おうかという問題です。二次元だったら複数関数論を使ってやります。流体力学はその辺はお手の物で、流体力学的にソース(湧点)を使えばいいということはわかっていたから、複素関数論で、二次元でやれるのだけれども、三次元にするにはどうしたらいいかと延々と考えました。しかし、三次元に持っていく解が得られなかった。要するに複素空間での特異点をどういうふうに三次元であらわすかということです。そのとき、昔暇つぶしにさんざん読んだ本で、寺寛の数学の本(寺沢寛一の「自然科学者のための数学概論」)をぺらぺらとめくっていました。応用編のところを見ていたら、そこにデルタ関数の話が出ていて、これで全部できるのではないかと感じました。デルタ関数で特異点をあらわしたら、ちょうど特異点の性格が三次元に拡張できているのですよ。複数関数の二次元の特異点が。二次元だとlogになる。特異点の性格からlog(Z)であらわされるのだけれども、三次元だったらr分の1になる。そのr分の1の特異点の性格がデルタ関数できれいにあらわされて、これでいけるのではないかと思ったら、あっという間にいろいろな問題みんな解決の光が差してくる。今まで抱えていた問題がこれで全部計算できると思ったら、寝る間も惜しんで計算しました。もちろん抽象的な次元だけれども、紙の上で計算できますから、寝る時間を惜しんで計算して、自分が抱えていたありとあらゆる問題は全部それで整理しました。そうすると基本的にどうやれば評価ができるかということがわかるものだから、また先へ進めるわけです。そういう感動が時々あるのですよ。
 それは論文にするような話でもなかったけれども、それをベースにすると、流体構造連成の話、少なくとも私が扱っていた問題に関して言うと、全部きれいに定式化できて、従来から言われていたことが数式上できちんと証明できるということがわかった。このことは余分なことだったけれども、余分なことに使う時間もあったし、余分なことをきれいに整理して、自分で満足していました。
 今の若い方はそういう余分なことを行う余裕がないのかもしれませんが、ごく一般的な話で、例えばある目的を達成するのに全部で100%だとすると、大体20%の時間で8割方の完成度まで至るわけです。残り2割の完成度を満足させるために残り80%の時間がかかる。これは普通に言われていることです。だから、残り20%に80%の時間を費やす意味があるかどうかということをよく考えなければいけない。


若き日の有信会長
<クレムリン宮殿 赤の広場にて>

もちろん、そこに意味がある人たちもいるわけですよ。大学で研究をやっている人たちにはそこをやってもらわなければいけないけれども、企業である目的を達成しようと思ったときには、8割でいい場合のほうが多いわけです。だから、そこは大学サイドと企業サイドでお互いにうまく協力するなり何なりしながらやっていかないといけないところでもある。
 その8割でいいかどうかということを見極めるときには、全体をもう少し俯瞰的に見るといいますか、自分のやっている仕事の全体的な枠組みの中での位置づけを見る。そして何が満足できれば自分の仕事が完成するかというところを見極める。そこが技術者としての仕事と研究者としての仕事の差です。