社団法人日本機械学会

海外での経験

 今振り返ってみると、我が技術者人生の中で、海外にまつわる活動が、かなり大きな比重を占めている。タービン設計を離れ、海外の火力発電設備の受注、契約ネゴおよび据え付けと一連のプロジェクト管理のための海外出張が多かった。特に、海外技術部・副部長のころは、フリー・ランサーのプロジェクト・マネージャーとして、当時、普通には行けなかった中国(哈爾浜など)、ユーゴスラビア、南北統一がなってまもなくの ヴェトナムやベルリンの壁の向こうの東ドイツなどの社会主義の国々、イラン・イラク戦争の最中のタブリーズ(イラン)の建設現場で、イラク戦闘機に襲われるなど、血湧き肉躍る体験もしばしばであった。

本音で話すことの大切さ

 海外での仕事が重なるうちに、外国人に対する対応が以前と変わっていったことに気付いていた。日本人は多くの人が、本音で会話したり激論を交わすことが苦手のようである。相手の立場をおもんぱかって、あるいは、その場の雰囲気や顧客との関係を台無しにすることを恐れて、相手が間違っていようとも、議論を途中でやめてしまったり、意味がわからないまま妥協してしまうこともしばしばである。海外では、契約に照らして間違った意見であれば、相手がお客さんであっても、喧々がくがくの掛け合いとなる。契約の条文だけが頼りである。はじめの頃は、海外での交渉や契約の会議の場にあっても「日本人風」であったと記憶しているが、82年、テヘランでのある日、「General Contract には、こう書いてあるから、君の考えは間違っている。それは日立の負担である。」ときた。その晩、分厚いGeneral Contract をひっくり返して調べてみたが、その記述はなかった。次の日、そう告げると、ああ、そうか! で、おしまいであった。
 正確な情報と本音で話すことの大切さを、雰囲気に飲まれて、イエスマンとなっては取り返しのつかないことになることを感じ取ったのである。これは、ビジネスマンとしてはごく普通の常識であるが、若い皆さんにとっては、気をつけてほしい第1歩であると思う。一方、海外の仕事では、ダイレクトに本音で話できるから、妙な気使いがいらず、さっぱりとして気楽なことも多い。

流ちょうではなくても、正確に

 こう書いてくると、賢明な読者は、海外で仕事をするとき、外国語が必要だろうに! とお気付きと思う。当然、外国語を自分の言葉で話してのことである。こういう私も、学生の頃から板付ベースの若き将校たちとつきあい英会話教室に通う頃は、話が通じないもどかしさに悶々としていた。日立に入り、海外への出張も多くなり、否応なしに、次第に自分の意志を、流ちょうではなくても正確に、英語で伝えられるようになっていった。機械技術者の場合、文法さえしっかりしておれば、そばに図面があり、森羅万象を貫く諸々の原理・法則があるので、英語による意思の伝達は、以外と楽なことが多い。さらに、「高校に通う道すがら、良き友のO君と競って、基本文例を数多く、がむしゃらに覚えたこと」が後々、慣れも手伝って考える前に英語が出てくる様になったと思う。

海外での思いがけない出会いや楽しみ

 もう一つの外国語、ドイツ語のことでは、九州大学・熱工学の恩師、西川兼康 教授が、熱力学の教科書に使われた、Nuβeltの Thermodinamik に刺激されて、ユーゴスラビアへ頻繁に出張した 78-79年頃、好んでドイツ航空・ルフトハンザに乗った。当時アンカレッジ経由であった機は、北極航路に入ると、スチュアーデスの Maedchen いや、むしろ Alte Fraeurein の皆さんは、フランクフルトに着くまでの8時間、お暇をもてあましていらした。アンカレッジまでに、怪しげなドイツ語でジントニックを注文したりしていた私は、「生意気なお兄ちゃんがいるわよ! いっちょう、かわいがってあげましょうよ!」というわけで、「Kommen Sie Hier!」 おばちゃんたちが車座になっている後部座席に呼び出されて、「ドイツ語の特訓」を受けることに相成った。厳しい特訓であったが、結構楽しかった。当時のメモを見ると、7回ほどの出張の度に、1回3-4時間、合計20数時間の特訓は、さすがに効を奏して、フランクフルトの街で、大抵の会話はこなせるようになっていた。さらに、英語の通じないユーゴでは、ドイツ語が頼りであった。白人が話すと、ヒトラーを思い起こして、人々は口を閉ざしたが、日本人では問題なかった。山奥の村人も、にこにこと話してくれた。あるときは、新築のお祝いの席に紛れ込んで大歓待、ウオッカと味の深いユーゴ料理に酔いしれたものである。