特集 母国語で学術論文を書く意義
学術活動を取り巻く環境と和文学術誌の意義
学術成果は人類全体で共有するべき総合知
学術研究、すなわち知的創造活動による成果は人類全体で共有すべき知的財産であることが望まれる。気候変動、資源・エネルギー、国際紛争、パンデミックなど取り組むべき喫緊の課題が山積する不安定で不確実な未来社会において、人類の安寧と世界の平和・安全を持続的に実現するためには、一国の「知」のみではこれらの課題を解決することはできず人類全体の総合知を持って果敢に挑むことが必要となる。2020年に始まった新型コロナウイルスのパンデミックは、有効なワクチン開発のためには国際的な情報共有と協力が不可欠であること、グローバルな課題を解決するには人文社会科学と自然科学を含むあらゆる分野の知の融合による総合知が重要であることを改めて私達に教訓として残した。
「知」には個人の経験や感覚に基づく非言語的・主観的な「暗黙知(1)」と言語化が可能な「形式知」が含まれ、学術成果は形式知として言語による共有が可能である。すなわち、その共有範囲は使用言語により母国語圏内に留まるかグローバルに展開されるか、として選択される。文部科学省科学技術・学術政策研究所の報告書「ジャーナルに注目した主要国の論文発表の特徴(2)」によると、我が国の自国ジャーナルにおける論文使用言語割合は、非オープンアクセス誌の場合、日本語46.5%、英語53.2%、オープンアクセス誌の場合の場合、日本語10.2%、英語89.6%となっている。つまり、この割合の日本語論文の研究成果はほぼ国内のみで共有されており、グローバルには潜在的な知として埋もれ共有されず人類全体の総合知としては無視できない損失であると言える。
日本学術会議の提言「学術誌問題の解決に向けて(3)」においても学術誌の国際化の必要性が述べられている。しかし、Top10%国際共著論文数において我が国の順位が下降の一途を辿っている現状は、日本人研究者が国際研究者ネットワークに組み込まれていないことを提示している(4)。世界で活躍し学術分野を先導する研究者となるためには、質の高い優れた英語論文を多く産出し、国際共同研究へと発展させていく機会を増やすことが重要である。実際にOECD(経済協力開発機構)のスコアボードによれば、国際流動している研究者は被引用数が多い学術雑誌への投稿が多く研究力が高い傾向があると分析されている(5)。
別の視座から論ずると、学術成果の英語化は我が国の学術成果の国際発信力強化に繋がることに加えて、国際社会において多方面にわたり国益に資することも指摘したい。世界は国境のみでなく、政治的、経済的、文化的に見えない境界によって分断されているが、全世界的に急速に発達した情報ネットワークにより大量の情報が瞬時に伝達できる現在において、情報社会に境界は見られない。学術、政治、経済、文化は一見、社会の異なる別々の側面に映るが、高度情報化社会においてそれらは絶えず動的に相互作用を及ぼし合っている。日本経済の国際競争力が低下している中で、学術成果の国際発信は学術を通して世界の耳目を我が国に向ける重要な役割も担っている。
以上の論考から、学術成果を掲載する学術誌には国際的に開かれたグローバルな知の共有プラットホームとしての役割が求められる、と言える。すなわち、学術誌の国際化は1)人類全体における知の共有、2)我が国の国際頭脳循環における劣後の回復、3)我が国の国家ブランドの強化、の点で重要である。
母国語で学術論文を書く意義
学術成果を母国語で書くか英語で書くか、については人文社会科学と自然科学、さらには諸科学の中においても分野の特徴と国際化の親和性に差異があるため、分野間で議論に温度差はあるであろう。例えば、人文学の国際化について「文学研究は従来の一国一言語によるディシプリンの縦割りの限界に突き当たっており、個別ディシプリンを超えた世界文学的アプローチの検討が必要とされている。」とし母国語による議論の重要性を説きながらも英語コミュニケーションによる重要性を指摘している(6)。
機械工学分野において学術成果の国際化を推進するためには、英語で論文を書くことが大原則であり今後もこの流れは続くと考えられる。しかし本会英文学術誌がインパクトファクター付与のため投稿数の増加により充実化していく一方で、英文学術誌のクオリティーは十分に担保できているのか、さらには本会和文学術誌の投稿数は減少しクオリティーは以前より下がってきたのではとの懸念も聞こえる。インパクトファクター付与のない和文学術誌への投稿数は減少しハイクオリティーの論文原稿は次第に投稿されなくなるのではないかという懸念もある。しかしながら、研究者初期の段階で母国語である日本語で論理性の高い論文を作成・投稿し、日本人査読者による査読を経て採択まで辿り着く経験をしっかりと積んでいくことは母国語による学術研究の深い理解の点で重要である。例えば視点を産業界に向けてみると、我が国の産業を守りつつ、持続的に発展させるためには日本語による知の共有は極めて重要である。特に企業の研究者・技術者において実用上・実務上、これまで日本語により集積された知的財産は引き続き日本語による利活用が望まれ、科学技術とイノベーションの創出のためには日本語による知の継承が正確、安全、安定、迅速なものであると言える。科学と国境に関する議論は古くから存在しており、フランス細菌学者のルイ・パスツールは“科学に国境なし、されど科学に祖国あり”と述べている。科学の成果に国境はないが、その成果は祖国の発展のために使われるべき、との意味である。学術研究によって生み出された知を我が国の発展に使うためには、情報が確実、安全、安定、迅速に伝達・共有できる日本語が有効であることに異論はないであろう。
「知」を共有する、すなわち情報を伝達する上で最も重要なことは正確性である。日本語は、日本語話者の間で“前提”が共有されており、最初に明確な誘導がなくてもお互いにわかり合うことができるため論理的思考がすぐに共有されるという言語的特徴がある。日本語と英語を比較した場合、米国国防省付属語学学校の分析によれば、日本語は英語から最も遠い距離のカテゴリーに分類されている。日本語はハイコンテキストの言語(文脈性が強い)であるため情報が暗黙の了解や非言語情報によって補完される一方、英語はローコンテキストの言語(文脈性が弱い)であるため情報はできるだけ言語自体に含まれる傾向がある。この言語的特徴のため、論文記述における言語情報として両言語の間では形式的情報量と暗黙的情報量にある程度の違いが出ることが考えられ、そうだとすると両言語において言語情報としての正確性にも差が生じる可能性があり、この点は日本人が英語論文を執筆する際に陥りやすい難所であると考えられる。つまり、日本語で学術論文を書くことは、英語で学術論文を書く場合と比較すると、日本語の言語としての特徴をより意識することで、さらに日本語論文としての質を高めることにも繋げられるという本質的な作業であるとも言える。
最近では欧米を中心に、インパクトファクターやh-indexを用いて研究者の実力を評価することを止め、代わりに代表的論文を用いて実力を評価する傾向が見られる。すなわち、英語論文の量が研究者の実力に直結してきたこれまでの評価方法の転換が始まってきたと言える。また、Chat-GPTなどの生成AIが普及してきた現在では、良質な日本語論文はそのまま英語に変換しても、良質な英文訳が生成されることも考えられる。この点において近い将来、どの言語で論文を書いても自動的に英語論文として掲載されるような学術誌プラットホームが開発されるかもしれない。もちろん、研究者において世界共通言語である英語のリテラシー向上が今後も必要とされることに疑いはない。本特集では、本会において和文学術誌と英文学術誌を発刊している状況下、以上の論点に鑑み、日本語で学術論文を書く意義について会員読者と深耕したい。
参考文献
(1)マイケル・ポランニー(高橋勇夫/訳),暗黙知の次元(2003),筑摩書房.
(2)文部科学省科学技術・学術政策研究所,ジャーナルに注目した主要国の論文発表の特徴,資料3-1,科学技術・学術審議会、第56回総会(2017年1月30日),
https://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/giji/__icsFiles/afieldfile/2017/03/08/1382861_01.pdf
(3)日本学術会議科学者委員会学術誌問題検討分科会,学術誌問題の解決に向けて―「包括的学術誌コンソーシアム」の創設―(2010年8月2日),
https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-21-t101-1.pdf
(4)文部科学省科学技術・学術政策研究所,科学技術指標2023,4.1.2研究活動の国別比較,4.1論文,第4章 研究開発のアウトプット.
(5)岡谷重雄,研究力と国際化について-国際頭脳循環から脱落しないために-、STI Horizon,Vol. 8, No. 1, 2022, 文部科学省科学技術・学術政策研究所.
(6)沼野充義,国文学者が英語で論文を書く日,シンポジウム報告 人文学の国際化と日本語 ―言語・文学研究の立場から―,学術の動向,(2021年4月).
編修理事会
キーワード:特集 母国語で学術論文を書く意義