特集 母国語で学術論文を書く意義
『日立評論』にみる母国語での論文執筆の意義と効果
Abstract
学術論文は、論文誌の投稿から採択に至るまでのプロセスを念頭に英語で執筆されることが多いが、企業などの技術的成果の発信を目的とした論文を掲載する技報では、対象とする地域・市場に合わせた言語で執筆することが重要となる。本稿では、社会課題を解決する日立グループの取り組みを紹介する技術情報メディア『日立評論』を例に、母国語で論文を執筆することの意義や効果を考察する。
はじめに
技報とは、企業が自社の技術開発や研究成果を社内外に広く公開するために発行する刊行物であり、特に日本の製造業に多く見られる企業文化として長らく継続してきた。学術論文誌のような厳密な査読は行わないものの、技術的な内容が詳細に記述されるという特徴がある。
技報が発行元企業にもたらす意義・効果としては、以下のような点が考えられる。
(1)技術力のアピール
自社の高度な技術力をアピールし、事業の推進・拡大、優秀な人財の獲得や企業イメージ・ブランド価値の向上につなげることができる。
(2)技術情報の蓄積
過去の研究開発の経緯や成果を体系的に記録・蓄積し、社内外の研究者・技術者との情報共有を図ることができる。また、記録・蓄積された技術情報を顧客やパートナーとの協創の端緒として、社会課題の解決に資する新たな技術開発につなげるというねらいもある。
(3)従業員のスキル・モチベーション向上
技報に掲載する論文の執筆を通じて、情報整理や論理的思考力を培うといった従業員のスキル向上効果、組織の一体感や技術者としての誇りの醸成といった効果が期待できる。
『日立評論』の歴史と位置づけの変遷
技術情報メディア『日立評論』(1)は、上述した意義・効果の点から日立グループの技報と位置づけることができる。日立製作所の創業から間もない1918年(大正7年)1月に月刊誌として創刊され、日本の製造業が発行する定期刊行物として最も長い歴史を持つとされている。日立創立者の一人である馬場粂夫が、欧米メーカーの技術を輸入し模倣していた日本の産業界の技術水準の向上を図り、国産技術、自主技術の開発を活性化させるために、米国企業の技術論文誌や学会誌などを参考に創刊したと言われている(図1)。
図1 馬場粂夫博士と日立評論創刊号の表紙
『日立評論』はこれまで、時代ごとの社会・事業環境に応じて編集方針や誌面構成を変化させてきた。
(1)創刊~1970年
「日立の学術研究の成果を発表し、工学技術の進歩、向上に寄与する」ことを目的とした工学技術研究誌
(2)1971年~1990年
「学術論文ではなく、顧客に役立つものであることを第一義とする」技術論文誌
(3)1991年~2016年
「日立グループの技術・システム・ソリューションを顧客の観点から紹介する」技術解説論文誌
(4)2017年~現在
「イノベーションを通じて社会課題に応える日立グループの取り組みを紹介する」技術情報メディア
現在では主に技術系ビジネスパーソンを対象に、日立グループの研究開発成果、ソリューション・サービスの導入事例などを技術の側面・文脈から紹介し、さまざまな顧客・パートナーとのビジネス創出や協創の契機とすることを目的としている。
また、1990年代に開設したウェブサイトは、最新コンテンツを掲載するとともに1950年以降の論文・記事の大部分を全文公開するなど日立グループの技術開発成果のアーカイブとしても機能している(図2)。2023年には冊子発行を中心とした形態に代え、ウェブメディアを中心とした媒体運営に転換した。
図2 日立評論ウェブサイト
このように『日立評論』は、創刊から現在まで100年を超える歴史の中で各時代に合わせてさまざまな変容を遂げながらも、日立の技術者・研究者自身の執筆による論文を主とする形態は一貫し、それを対話と議論のための場にするという創刊時の思いを脈々と受け継いでいる(2)(図3)。
図3 日立評論誌の変遷
母国語で論文を執筆する意義と効果
近年では社会環境や経済活動のグローバル化に伴い、公的機関、企業・団体、個人などが、英語を用いて情報発信や広告宣伝を行う場面が増加している。特定の国・地域に限定せず研究成果を発表することを目的とした学術論文にはもとよりその傾向があり、論文誌への投稿、査読、採択といった厳格な過程とその中で関わる人々を念頭に、執筆者は最初から英語で執筆することも多い。
一方、前述のとおり『日立評論』は100年以上にわたって日本語で執筆された論文を公表し、日本国内の読者との対話・議論の場としてきた。本章では、執筆者および対象読者の母国語で論文を執筆することの意義について、1970年代にその位置づけを明確にしたとおり『日立評論』が学術論文誌ではなく技報であるという点も交えながら考察する。
(1)文章の執筆は、論旨の設定、構成の検討、適切な修辞・単語の選択などを含む総合的な知的活動である。言語を用いた思考プロセスそのものであるため、不自由なく使用できる言語(母国語)で執筆することで、当人の理解・認識・意思に即した論理展開や記述をしやすいと言える。
(2)技報の主な想定読者はアカデミア関係者ではなく各業種の企業の従業員であり、英語での読解に不慣れな読者も多いと考えられる。そのような読者でも自身の母国語で執筆された論文であれば、容易に読解することができる。
(3)学術論文が普遍的な研究成果や知見を発表することが多い一方、技報に掲載される論文は特定の状況・課題に対する技術的解決策やその適用事例を述べるものが多い。しかし、論文という形態である以上、記述に正確性や論理性が求められる点では両者に違いはなく、個別具体的なケースを記述し、論文の書き手と読み手の間での共通理解を形成するためには母国語を用いることが効果的・効率的であると考えられる。
おわりに
本稿では、企業などが発行する技報の特徴を述べ、その一つとして『日立評論』を紹介するとともに、母国語で論文を執筆することの意義と効果について考察した。
グローバル化の進展に伴い、世界の基軸的な言語として通用する英語での情報発信が今後も増えていくと想定されるが、それと同時に、対象読者に配慮した言語での情報発信は個別的・特定的な課題に寄り添う意味で新たな意義を帯びていくと考えられる。『日立評論』はグローバルと地域固有という双方の観点で社会課題を捉えながら、技術が生み出す価値を正確に届ける情報発信を続けていく。
参考文献
(1)日立評論ウェブサイト,日立製作所,
https://www.hitachihyoron.com/jp/about_hyoron/index.html(参照日2025年2月21日).
(2)日立評論創刊100周年記念サイト,日立製作所,
https://www.hitachihyoron.com/jp/100th/history/index.html(参照日2025年2月21日).
日立評論編集事務局
◎(株)日立製作所 グローバルブランドコミュニケーション本部
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