No.223 散る桜、残る桜も散る桜
2025年度編修理事 大橋 俊朗〔北海道大学 教授〕
JSME談話室「き・か・い」は、気軽な話題を集めて提供するコラム欄です。本会理事が交代で一年間を通して執筆します。

2025年度編修理事 大橋 俊朗〔北海道大学 教授〕
No.223 散る桜、残る桜も散る桜
今年の6月の日本の月平均気温は、統計を開始した1898年以降の6月として最も高くなったようです。気候は人々の暮らしに影響を与え、人々の気質を育むと言われてきました。例えば、フランスの思想家シャルル・ド・モンテスキューは1748年に著した「法の精神」の中で、地理や気候がどのように人々の精神や人間社会・文化の形成に作用しているのかについて論じました。また、ドイツの地理学者フリードリッヒ・ラッツェルはチャールズ・ダーウィンの進化論の影響を受けて、1891年に「人類地理学」を著し、自然環境の強い影響を受けて人間活動に地域性が生じるという環境決定論を提唱しました。このような自然地理学と人文地理学の融合的解釈は後に論争を巻き起こしましたが、自然環境が私達の思考や活動に影響を与えると考えることは不自然ではありません。科学技術は過酷な自然から身を守るため家屋を作り、人間は自然淘汰を受けずに繁栄することができましたが、ノーベル物理学賞受賞者の湯川 秀樹は、科学技術は人間の生活を快適にしてくれると同時に人間と自然の間に隔たりをもたらしている*1、と警鐘を鳴らしました。自然界の多様な山川草木には人工物にはない幅広い周波数スペクトルの色、形、音、におい、感触が含まれており*2、それが五感を通して受容され身体知あるいは暗黙知(言語化が難しい知)として体に蓄積されるのです。暗黙知はハンガリーの社会科学者・科学哲学者マイケル・ポランニーが提唱した知*3であり、すべての形式知(言語化された知)は暗黙知か暗黙知に根ざす、としています。つまり、自然環境は意識せずとも暗黙知を通して形式知に作用しているのです。
学生時代に読んだとある本(出典失念)に、“ドイツには深い森(黒い森とも言われる)が多くある。森の中から何が聞こえてくるのだろうと耳を傾けることで多くの音楽が生まれた。一方、フランスは広大な牧歌的風景が広がる。この美しい景色を描きたいとの思いから多くの絵画が生まれた。”との記述があったことを思い出しました。ドイツは、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンなどの著名な作曲家を数多く輩出しました。フランスは、クロード・モネ、ピエール・オーギュスト・ルノワールなど数多くの印象派画家を輩出しました。音楽や絵画に代表される芸術作品は人間の素晴らしい創造物であり、私達は時空を超えて作者の思考、感情、想像力を疑似体験し、生命や人間の本質について多くのアイディアを得ています。気候のみならずそこで生み出された芸術も私達自身を育んでいるのです。近年の脳科学研究において、心、体、環境の相互作用が研究されています。生命や人間の本質についてより理解が深められることでしょう。
標題の禅語は、江戸時代の曹洞宗の僧侶で歌人でもあった良寛和尚の辞世の句です。今どんなに美しく綺麗に咲いている桜でもいつかは必ず散る、という意味です。森羅万象、生きとし生けるものの本質です。Apple創業者スティーブ・ジョブスは2005年米国スタンフォード大学卒業式の祝辞において卒業生に向けて次のような言葉を述べました。「Death is very likely the single best invention of life. It’s life’s change agent. It clears out the old to make way for the new. Right now, the new is you, but someday not too long from now you will gradually become the old and be cleared away. Sorry to be so dramatic, but it is quite true. Your time is limited.」。これは良寛和尚の辞世の句に込められた思いと全く同じです。スティーブ・ジョブスは2004年にガンを煩い一度は快復しましたが、6年後の2011年に最愛の家族を残して56歳で亡くなりました。未来予測が可能な現生人類ホモサピエンス(私達)においても人生の長さを予測することは難しく、しかし、大事なことは心豊かに生きることだと思います。
中国の五行思想では、人生を4つの色と季節で言い表しました。10代半ばから30代前半までを「青春」、30代前半から50代後半を「朱夏」、50代後半から60代後半を「白秋」、60代後半以降を「玄冬」と表しました。玄冬は幼少期を指すとも言われています。季節は毎年巡りますが、人生の四季は一度だけです。青い春の後には、瞬く間に朱い夏が訪れ、誰にも等しく白い秋となりやがて深みのある玄冬を迎えます。朱夏、白秋、玄冬には青春に優美さを譲ることはあってもそれぞれが力強さと魅力に溢れた季節です。気候が人々の気質を育むように、人生の季節もまた人々の気質を育くむのでしょう。人生の季節を全身で感じ、“贈り物”である今日という日を慈しみながら、最後にアメリカの作家アリス・モース・アールの詩*4を引用します。
The clock is running.
Make the most of today.
Time waits for no man.
Yesterday is history.
Tomorrow is a mystery.
Today is a gift.
That’s why it is called the present.
*1 「自己発見」、湯川 秀樹、講談社文庫、1979年
*2 小泉英明x養老孟司、「子どもが心配」、養老孟司、PHP新書、2022年
*3 「暗黙知の次元」、マイケル・ポランニー (高橋勇夫訳)、ちくま学芸文庫、2003年
*4 「Sun Dials and Roses of Yesterday: Garden Delights」, Alice Morse Earle, 1902年