一般社団法人 The Japan Society of Mechanical Engineers

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No.225 「表面という悪魔と戦う」
2025年度財務理事 尾形秀樹〔(株)IHI 〕

JSME談話室「き・か・い」は、気軽な話題を集めて提供するコラム欄です。本会理事が交代で一年間を通して執筆します。


2025年度財務理事 尾形秀樹〔(株)IHI 〕

No.224 「表面という悪魔と戦う」

 

 

 

 


高校のときの物理の定期試験で、「摩擦のない世界を記述せよ」というシンプルな難題が出されました。自分が書いた答案は、氷の上を滑るイメージで、「つるっと滑って転んで、坂道でどんどん加速してしまった。もがいてもどうにもならなかったけど、たまたまあったロープにつかまって何とか止まることができた」というようなものだったと記憶しています。ただしこの時のロープは上から垂れ下がっているものではなく(つかんでも滑ってしまいます)、水平に渡されて固定されているロープじゃないと無理ですね。この答案で何点をつけてもらったのかはもはや覚えていませんが、なんという問題を出してくれるのだ、と思いました。

さてその数年後、大学を卒業して就職したときに配属されたのは、トライボロジーを専門的に扱う部門でした。恥ずかしながら配属先を聞いた時点で「トライボロジー」という言葉を知らなかったので、いささか動揺しました。聞けば摩擦・摩耗・潤滑を扱う分野だということでしたが、頭に浮かんだのは摩擦係数がμで表されることと、先ほどの試験問題くらいでした。そもそも大学入試の試験問題ではだいたい摩擦は無視されますから。

幸いにして、会社で担当としてついたのは、トライボロジーの中でも比較的計算に乗りやすい流体潤滑という分野でした。流体潤滑とは、潤滑油が薄い膜を作ることで固体同士の接触がない世界です。表面粗さなどを考慮する必要はありますが、基本的には流体力学で記述することができるので、体系的にはほぼできあがっています。つまり極論すれば、流体の支配方程式(連続の式、ナビエ・ストークスの式、そしてたまにエネルギー方程式)を解けば解が求まります。

とはいえ、もちろん実務では固体同士の接触を扱う必要もあります。そして固体接触が入ると途端に現象が複雑になり、訳がわからなくなります。高校の物理では、いわゆるアモントン・クーロンの摩擦法則(摩擦力は垂直力に比例する、摩擦力はみかけの接触面積に依存しないなど)を習いますが、実製品ではこの法則が成り立たないことだらけなのです。

これをうまく表現する言葉として、量子力学の排他原理で知られるかのウォルフガング・パウリは、”The bulk of a solid is made by God, the surface by the devil.”と言ったといわれています(ただし正確な出典は不明です)。原子配列が比較的整った固体内部とは異なり、摩擦が起きる表面には酸化膜や汚れなどがあるのに加え、湿度などの雰囲気の影響もうけます。そんな表面は悪魔によって作られたのだというのは、実感としてまさにその通りだと思います。ですので、固体接触にはあまりかかわりたくないな、とずっと思い続けてきました。

会社の中では専門家っぽく振る舞いはしますが、わかっていることなんてほとんどありません。当然社内では「実測しないと摩耗係数がわからないなんて、いつまで言っているのだ!」と怒られ続けます。もちろん世界のどんな専門家でも、部品Aと部品Bをこすったら摩擦係数はいくらか、どれくらい摩耗するか、なんて精度よく予測することはできません。ですから、よくわからないということを謙虚に認識して摩擦に立ち向かうしかありません。物と物をこするというそれだけの現象なのに、何と難しい世界なのか。

今後AIがどこまで助けてくれるかはわかりませんが、世の中のさままざな分野の技術者と一緒に知恵を出し合い、なんとかトライボロジー現象を少しずつでも解明していきたいと思います。そして日本機械学会はまさにそのような多様な技術者の宝庫です。