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マシンが走る、人も走る

一関工業高等専門学校
機械工学科5年  鈴木 康裕

 1991年の秋、2年生だった私は内動車部に人部し、エコランの遣に足を踏み入れてしまった。
 以来3年間、エコランに没頭することになるとは当時の私は思いもしなかった。そもそも入部したにもかかわらず、私は自動車部がどんな活動をしているかなんてことはぜんぜん知らず、ただ部室の周りに転がっている初代エコランカーやバイクの残骸を見て面白そうだなあと思って入部したのでした。
 入部してから1年ほどはエンジンの勉強で終わり、そして始めて筑波でのホンダエコノパワー燃費競技にヘルパーという立場で参加し、レースの面内さ(このときはまだメカニックの辛さを知らない)を知り、練習走行後のOB会では歴代のOBの方々(エコランカーでドリフトなどをやっちゃう)との前夜祭で盛り上がり、そして私は大会当日エコランガーの申で居眠りをして報道の人に写真をとられるなど、初めての大会は楽しむだけ楽しんだ大会でした。
 大会が終わってからエコランに目覚めた私はキャブレターを作って見ようと思い、それから4年生の前半までは既製のキャブレターを改造し、ガソリンの噴射方式やベンチュリー径なども変更して実験、試作を繰り返していました。結局、実は結べませんでしたがキャブレターの勉強をしたことは今でも大いに役立っています。4年生の後期はカウルの制作に没頭しました。あのときの溶剤のにおいとガラス繊維のちくちくはFRPをやったことのある人はだれでもわかるかと思います。
 2日目の筑波大会が終わったあと、今度は変速機に手を出しました。前回キャブレターなどを作った時に得た加工技術を駆使すればできるだろうとあさはかな私は思ったのです。変速機といってもギヤだけでなく、クラッチからファイナルまで全部変更しようというのだから私のそれまでの加工技術では足りるわけがなく、結局加工法を勉強しながら加工するという泥縄式の作業になってしまいました。今でもその変速機にこだわっています。もちろんクラブ全体としてもこの一年間は非常に充実したものでした。今までは2台のマシンで出場していたのですが今年は3台での出場となり、うち1台は全くの新車、もう1台はフレーム交換、私の担当車は変速機変更と実質新しいマシンを3台作ったような年でした。
 当然、夏休みはありませんでした…。


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