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おいしくなくなったハマチ

日本機械学会東北支部長
    新岡 嵩
(東北大学流体科学研究所)

 私の好物はハマチのさしみでお酒を飲むことであった。ところが、最近のハマチはおいしくない。ハマチを養殖したせいではないかと疑っている。最近のトマトもさっぱりした味で、いわゆるトマトくさい味がしなくなった。これもハウス栽培とやらのせいではないかと疑っている。自然の摂理を曲げて作っているところがあるのではないかと疑っている。いやほぼ確信している。スーパーではハマチは切り身しか見られないが、光沢があって新鮮に見えるし、トマトに至っては光沢があるだけではなく、形も色付き具合も同じものが並んでいる。ハマチは海洋で釣ってくるのは容易ではないが、トマトは自分でも作れる。そんなに手をかけないでも味は市販のものに比べれば抜群においしい。
 どこかでボタンをかけ違えたのではなかろうか。いつの日だったか何かを忘れてきたような気がする。夏に地方巡業にきた相撲の券をもらって観戦したが、遠くからでも、いつものテレビよりはるかに迫力があったし、どんなに音響機器が発達しても、オーケストラの公演を聴く方が感動する。どんなに通信機器が素晴らしく便利になっても、実際に人と会って話す方が中味が濃くなる。こんな単純なことをもっと深刻に捉えないと、我々がより便利になろうと努力して作っている「機械」は、我々を根底から変質させてしまいそうである。
 燃焼ガスを外へ排出してクリーンだとする暖房機器は、炎が見えなくなった。わざわざ多少見せているものもあるくらいである。我々が火を見るのは仏壇のろうそくぐらいになった。見なくなったものに水の流れと星空もある。火も水も星も人類の根源的なものであったはずである。囲炉裏を復活させよと言っている訳ではない。フナの釣れる小川をもう一度と言っている訳でもない。「機械」は、人間がもともと楽しんでいたものを奪うようなことがあってはならない。私のハマチの味を奪った原因は、どうやら当り前のことが当り前に取り扱われなくなったせいではなかろうかと考えている。ごく当り前の「機械」を作ることを考えようではないか。


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