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「ボランティア活動からの発見」

秋田大学 鉱山学部
機械工学科4年 鈴木 武志

私は大学生活中、学力、精神力、運動能力、他人への思いやりというものをひっくるめた「人格」を少しでも高めたいと考え、武術を学んだり、先人の思想書を読んだり、また様々なボランティア活動に積極的に参加したりしてきました。未だ未熟者の鈍才であることを日々痛感しておりますが、これらの経験は自分にとっては大きなプラスになったのではないかと思っています。さて、今回コンパスに寄稿するにあたり、私のボランティア活動にて、意外な発見があったので、それを皆さんに紹介したいと思います。
秋田県の合川町では、夏と冬に都会の小中学生に自然体験合宿をさせるということをやっており、私も毎回近県の大学生と一緒に指導者(ここでは大学生リーダーと呼ばれる)という形で参加させてもらっています。指導者というと多少硬いイメージが在りますが、実際の私の立場は、学校における先生と生徒のちょうど中間よりであるといえます。具体的には、子供達と寝食を共にし、自然体験活動中、子供達に危険が無いよう気を配ったり、生活全般の面倒を見たり、自由時間に遊んであげたり(遊ばれる?)しています。「こんな文章の堅苦しい男が子供と遊べるのか?」と思われそうですが、実際の私は文章からは想像もつかないような子供っぽい人間だったりします。まあ、私のことはどうでも良いとして。
子供(特に低学年)のエネルギーというものは凄まじいものがあり、その生命力の高さ、強さには目を見張るものがあります。我々大学生は、自由時間などに取っ組み合いだとか、鬼ごっこだとかに付き合わされるのですが、そこであることに気付きました。鬼ごっことは今更説明するまでもなく、皆さんも昔相当おやりになったと思います。“走り回って鬼から逃げる”というあれですが、子供達の逃げ方と言うのが実に多彩です。大声を張り上げ、四方八方、前後左右、弧を描き、ジグザグに……という具合に。子供の体力ですから、すぐに疲れて休むのですが、一分と立たないうちにまた走り出し、また休み……これを飽きるまで(または、学生がへばるまで)延々と繰り返します。とにかく、回復力の高さが半端ではないということ、走り方(動き方と言った方が正確か?)に一般の大人のような力感が無く、柔らかく、楽しそうに動きます。そして学年が上がるにつれて動きが大人に近くなっていきます。
私の学ぶ武術では、突き、蹴り、運足、体捌き全てにおいて、いかに力感をなくし、機械的な動きをやめ、柔らかく、かつ高速で、疲れにくい動き方で相手と対するか、ということ、つまりバイオメカニクス(生体力学)でいう浅層筋(アウターマッスル)を極力使わず、深層筋(インナーマッスル)を使った動きを身につける、ということを師より徹底的に叩き込まれます。子供達には、そういった高度な身体操法が無意識的に行住坐臥全てに使えているのではないか、ということに気付きました。無論、その子達が「大人以上の武力を持っている」ということではなくて、歩き方、走り方、立ち方などの日常的な動作・所作が、我々のような「標準的な大人」に比べて、バイオメカニクス的に効率の良い、高度な動きができているいうことです。
私は工学系の人間なので、ロボット工学を多少学んだり、高校の時にロボットの歩行の研究に関ったりした経験があるのですが、その動きのメカニズムというのは、やはり機械的…というか、バイオメカニクスに指摘される効率の悪い動き、つまり、我々一般的現代人の動き方だったと記憶しています。後で調べて分かったことなのですが、スポーツ界・武道界でも、超一流と呼ばれる選手などは例外なくバイオメカニクスでいう深層筋を上手につかえている人達なのだそうです。そして、至極おおざっぱに説明すると、深層筋が上手に使える選手はそうでない選手に比べて同じような運動をしているにみえても、疲れにくく、柔らかい、素早い、力感の無い、高度なパフォーマンスを体現出来るという事なのだそうです。また注目すべきは、心理状態も動きと比例した高レベルのものが得られるといいます。つまり、身体操法が高度な選手は高度なパフォーマンスを「快適に、気分良く、楽しく」体現する事が出来、身体操法が高度に行えない選手は同じようなパフォーマンスを、苦しく、不快にしか認識できないのだということです。ここでは詳しく述べられませんが、身体操法と、心理状態には想像以上に密接な関係があるのだそうです。
 改めて幼い子供の動き・心理を考えてみました。やはり、動きと心理状態の関係に以上のことと大いに共通点があると思います。私にも、勿論今これを読んでくださっている読者の皆様にも「辺りを走り回るだけで楽しくて仕方がなかった」少年・少女時代があったわけであり、かつてはスポーツ、武道の超一流の方々が有する高度な身体操法と心理状態が自然と身についていたのだと思います。だとすると、寂しいことに、我々一般人は身体と共に心まで劣化していることになります。これが私の考え違いでないのなら、私達は何故そうなってしまったのでしょうか? もしかすると、現代人は本来持っていた高度な身体意識を劣化してしまうような身体運動を無意識的に行っているのかもしれません。
私達人間一人一人には、頭脳のみでなく、身体という資源が与えられています。現代日本の社会というのは、身体というものをすごく粗末に扱っていると思います。それが今日の暗い世相に反映しているように思えてならないのは私だけでしょうか?
いささか話が飛躍してしまいましたが、稚拙な文章に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。



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