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あたしの未来予想図

秋田工業高等専門学校

機械工学科 5年 三浦康子

 私は、物心ついた時から自動車整備士になると決めていた。だから幼稚園の卒園画集にも、小学校のタイムカプセルの時も、「私は整備士になる」と書いた。

 そんな私の未来予想図が崩れたのは中3の時であった。進路を巡って両親と対立した。私が希望したのは工業高校、その後は専門学校へ行って整備士になることであった。

 それは父親が歩んできた道であり、ずっとその背中を見てきた。毎日着ているツナギが油まみれで洗濯しても落ちないことも、手やつめの中が真っ黒なことも、夏は汗だくになって、冬は凍えそうな中で作業していることも、そしてあの日、エアコンのガスが暴発して救急車で運ばれたことも、今でも神経のないその人差指で車に向かっていることも。

 高専の存在を知ったのは中3の9月でした。「どうしても工業の道に進みたかったら高専にしなさい」と言う父親の言葉に同意したのは、秋田市に下宿できると思ったから。

 それに高専は、私服だって聞いたから。ところが、どちらも実現しなかった。
家から往復4時間の電車の旅、これを3年間続けた。おまけに制服はこけみたいな緑色で、黄色のネクタイ…。

 今思えば、ひょんなことから私の未来予想図は崩れたけど、高専に入ってものすごくたくさんのことを学んだ気がする。まず、体内時計の存在。私、電車の中は睡眠の場だったけど、一度も寝過ごしたことがない。それから満員電車での"立ち寝"。人間やろうと思えば何でも可能。それに、男女の友情の存在。あり得ないとか言っていたら、機械科ではやっていけない。それに、男の子のほうが接しやすい。ちょっとくらい言い合っても次の日はケロっとしている。気をつかわなくていいし、すごく楽に付き合えた。そして、最も勉強になったのは一人暮らし。えびって火を通す前は黒かったのを知ったのは人生最大の驚きだった。たくさんのことを経験する機会を与えてくれた両親には心から感謝している。恥ずかしくて言えないけど…。

 高専卒業後の進路を決める時、やっぱり整備士の道を目指すことは反対されて、何ヶ月もかけて両親を説得した。今では私を応援してくれている。

 私の未来予想図は思ったとおりにはいかなかったけれど、5年の歳月をかけて軌道修正されて、これからやっとかなえられてく…。



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