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キラ・ヤマト フリーダム 行きます!

山形大学

工学部機械システム工学科 渡邉洋輔

  古来、人は自由を追い求めてきた。それを獲得するために、先人たちは奔走し、 そのおかげで今の私たちがいるといっても過言ではない。しかし自由はその偉大さゆえに、 時として私たちを困らせる。

 例えば友人の家にあなたが招かれたとしよう。あなたは玄関から入り、居間に通されるであろう。 そこに友人へ電話がかかり、少し待っていると、どうやら友人は少し外出しなくてはならない用事が できたらしい。友人は言うであろう。「適当にくつろいでて。」と。この時あなたはどう感じるだろうか。 イヤッホー!いない間にちょっと探ってみよー。だろうか。それとも、えぇっ動きづらっ。と思うだろうか。 後者は自由であるはずが、逆に束縛を感じるケースのひとつである。 しかしこれは、自由の偉大さとはまったく無関係である。ではもうひとつのケースを見てみよう。

 例えばコラムの執筆である。あなたは電子コンパスなるものにコラムを書くよう依頼された。 内容は自由でよいという。参考として過去のものを参照するが、研究の内容や個人の思想など様々である。 人に見せるものならば、当然、美しいものを書きたいと考える。すると突然、それまで仲良く 手を取っていたはずの“自由”が、その大きな口を開け、あなたはたちまち飲み込まれてしまうだろう。 もちろん、何か特別に書きたいことがある場合は別で、あなたは嬉々として書き始めることが出来る。 しかしネタがない場合は何を書けばよいのか見失ってしまう。自由であるはずなのに。 そのうちあなたは“コラム”、“コラム 書き方”などのワードを検索欄に入力し、 定義やらコツやらの膨大な情報の迷路に迷い込む。しまいには、“古来、人は自由を追い求めてきた…” などと書き始める始末である。

 こんなときはとにかく行動に移すことが肝心であるように思う。このケースでは書くことである。 はじめは0だと思う状態が、書いていくうちに+1にも+100にも成り得るからだ。不思議だ。 もしかしたら人の脳は、連鎖して考えることが得意なのかもしれない。 そうしてコラムを書き終えたあなたはタイトルをつける権利を持つ。 しかしあなたは凝らずに適当につけるであろう。書いているうちに思いついているし、 頭でっかちのものは美しくないからだ。


山形の頭でっかち”樹氷”です(これはきれいです!)。今日ボードを滑りに行きました。


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