8.8 YS11の開発について

1945年の敗戦により,日本は一切の航空機開発を禁止された.占領軍によるこの禁止令は1952年にようやく解除された.日本の航空産業はこのとき,無からの再出発を強いられた.

1956年6月13日に開かれた航空工業会の定期理事会において,当時の通産省重工業局航空機武器課課長 赤沢璋一は国産輸送機開発に関する構想を発表した.当時アメリカの航空会社は150?200人も乗れる大型機の開発を進めている最中であり,完全に出遅れた日本がそこに食い込むのは無理と思われたため,中型機の開発が選択された.1957年,正式に予算が認められ,研究組合の性格をもつ「財団法人輸送機設計研究協会(輸研)」が設立された.輸研は以下のメンバからなる技術委員会を組織した.
委員長    日本大学教授   木村秀政
企画班主任 元中島飛行機技師 太田稔
空力班主任 元川西航空機技師 菊原静男
構造班主任 元三菱重工技師  堀越二郎
艤装班主任 元川崎航空機技師 土井武夫
木村は戦時中,東大航空研究所において世界周回航続距離記録を打ち立てた「航研機」の設計に参加していた.太田は戦時中,陸軍の「九七式戦闘機」,一式戦闘機「隼」,四式戦闘機「疾風」などの設計にかかわった.菊原は海軍の「九七式飛行艇」,「二式大型飛行艇」,局地戦闘機「紫電」および「紫電改」の設計主任を務めた.堀越は「九六式艦上戦闘機」,「零式艦上戦闘機」(零戦),艦上戦闘機「烈風」などの主任設計者であった.土井は陸軍の三式戦闘機「飛燕」などの主任設計者を務めた.

機名はYS11と決定した.これは輸送機設計の頭文字YSとエンジン選択第1案(ロールスロイスダートエンジン),機体設計第1案(主翼面積95平方メートル)を選択したことに由来するものである.したがって,YS11は「ワイエスいちいち」と読むのが正しく,「ワイエスじゅういち」ではない.

YS11の特徴の一つは,基本設計を進めるに当たり,オペレーションズリサーチの手法を取り入れたことにある.すなわち,飛行機の基本的な性格を定める要素,主翼面積,主翼縦横比,翼厚,重量,エンジン馬力などの変化にともなう性能・経済性(直接運航費)の変化をコンピュータによって詳しく調べた.技術委員会はオペレーションズリサーチに東大教授 近藤次郎らの協力を得て,もっとも有利な乗客数を60人と決め,これに基づいて基本的な設計をすすめた.このような方法は現在では常識とされることであるが,当時としては非常に新しかった.この内容は木村,近藤,菊原の連名により,1960年チューリッヒで開かれた第2回国際航空学会で
「Operations Research in the Basic Design of YS-11 Transport Airplane」
と題して発表された.また,日本の国状にあわせて1200mの短い滑走路でも離着陸できることを目標とした.その結果,YS-11はターボプロップエンジンを2機搭載した双発機となった.

このような基本計画に対し,60席では大きすぎる,ターボプロップよりピストンエンジンがよい,予圧客室は贅沢だ,新味が全くないなどの批判が相次いだ.このような批判に対し,木村は次のように語っている.
「YS11があのような平凡な形になったのは,滑走距離が短くて運航費の安い経済的な近距離輸送機というきわめて地味な性格によるもので,このような性格に最もよく適合する形を,合理的に追求した結果なのである.」 飛行機の本,新潮社(1962)

基本設計にあたった技術委員会の主任は,戦時中幾多の傑作機を設計した錚々たるメンバであったため,航空機の設計に関する考え方も異なっていた。その結果,激しい議論が続いた.木村は
「何しろこの道で一家を成した連中の集まりなので,何かといえば激しい議論になった.しかし,お互いに遠慮なくものをいえる間柄だし,純粋に技術的な議論なのでほんとうに楽しく,時を経つのを忘れた.」わがヒコーキ人生,日本経済新聞社(1972)
と述べている.

1959年6月1日,「特殊法人日本航空機製造株式会社(日航製)」が資本金5億円で設立され,輸研が進めてきた基本計画を引き継ぎ,詳細計画図の作成を担当することになった.設計部長には新三菱重工の技術部次長であった東條輝雄が就任し,試作・量産の指揮をとることになった.東條らの設計チームは輸研の基本設計を詳細に検討した結果,いくつかの矛盾に直面した.そこで,重量を軽くするため胴体を細くする等の設計変更を行い,詳細計画図を完成させた.ここで描かれた計画図に基づいて各メーカが詳細設計を行い,それらを日航製が確認したのち,機体メーカが製作を行った.

1号機の部品製作は1961年から始まった.主翼を川崎重工,胴体を新三菱と日本飛行機,脚を住友精密が担当し,それらを新三菱小牧工場に集めて組み立てを行った.1962年7月11日,第1号機がロールアウトした.同年8月30日7時21分,名古屋空港を離陸,初飛行に成功した.操縦士は近藤計三,副操縦士は長谷川栄三であった.試験飛行の結果,いくつかの問題点が明らかになった.YS-11はできるだけ大きいペイロードで,しかも短い離着陸距離を目標に設計されたため,三舵(ラダー,エルロン,エレベータ)の効きが悪く,横安定性が不十分であった.そのため,日航製は三舵を改修すると同時に,上半角を2度増やしてこの問題に対処した.また,境界層の剥離による振動問題も発生した.これに対しては翼面にボルテックスジェネレータを取り付けることにより解決した.このような改修によって,型式証明を得るまでに時間がかかったが,1964年8月25日に運輸省の,1965年9月7日に米国連邦航空局の型式認定を得た.

YS11の主要スペック(A-200)と型名

エンジン
Rolls-Royce Dart 542-10K turboprop×2
乗員
2名
乗客
60名
全長
26.30m
全幅
32.00m
全高
8.98m
主翼面積
94.80u
機体重量
15,419kg
離陸重量
24,500kg
着陸重量
24,000kg
有償重量
6,581kg
搭載燃料
5,820kg
最高速度
546km/h
巡航速度
452km/h
最高到達高度
6,580m
離陸滑走路長
1,280m
着陸滑走路長
668m
航続距離
3,215km

 

型名
変更点
最大離陸重量
YS11-100
基本型
23,500kg
YS11A-200
エンジンの出力をアップ
24,500kg
YS11A-300
胴体の前半部を貨物室に改造
24,500kg
YS11A-400
貨物専用型
24,500kg
YS11A-500
A-200の輸送力アップ型
25,000kg
YS11A-600
A-300の輸送力アップ型
25,000kg

計画が出発してから8年, 58億5千万円の開発費をかけたYS-11は1964年量産体制に入った.販路を確保すべく,日航製は1966年,北米各地でのデモフライトを実施した.続いて,1967年1月には南米で,同年12月にはカナダで,1968年にはアジア,中近東,ヨーロッパなどでもデモフライトを行った.その結果,1968年末には確定受注機数が100機を越えた.その後も販売数を増やし,1974年に生産が終了するまでの生産総数は182機,販売総数は181機であった.なお,現在でも飛行を続けているYS11は世界で82機に上る.

販売先
機数
全日空
34
東亜国内航空(現JAS)
33
中日本航空
1
南西航空
5
防衛庁空幕
13
防衛庁海幕
10
航空大学校
2
航空局
3
海上保安庁
5
ピードモント航空(アメリカ)
23
リーブアリューシャン航空(アメリカ)
2
オリンピック航空(ギリシャ)
8
クルゼイロ航空(ブラジル)
8
バスプ航空(ブラジル)
6
トランズエア(カナダ)
2
エアアフリカ(コートジボアール)
2
ガボン政府(ガボン)
2
アリマンタシオン(ザイール)
1
大韓航空(韓国)
8
オリエント航空(台湾)
2
フィリピン政府(フィリピン)
1
フィリピナスオリエント航空(フィリピン)
4
ボーラック航空(インドネシア)
1
ペリタエアサービス(インドネシア)
2
アラ航空(アルゼンチン)
3

YS11の性能上の特徴は次のようにまとめられる.
1.短い離着陸距離
設計時点から日本のローカル空港で使用することを想定して,短距離離着陸を重視していた.そのため,ターボプロップエンジンを使用したプロペラ機とした.ターボプロップエンジンはピストンエンジンにくらべて馬力当たりの重量が半分以下であり,信頼性も高い.
2.頑丈な機体構造
設計段階で胴体のギロチンテスト,水槽テストなどを行い,非常に頑丈な機体とした.当時,イギリスのジェット旅客機コメットの疲労破壊事故の原因が解明されたばかりであり,日本には民間輸送機の設計に関するノウハウもなかったことから,疲労限度にかなりの余裕をみて設計された.その結果,設計時の寿命は3万時間であるにも関わらず,飛行時間6万時間をこえる機体がいまだに現役として飛行している.これもYS11の頑丈さによるものである.
3.極めて高い信頼性
1997年エアーニッポンではYS11の定時出発率が99.6から99.8パーセントという驚異的な値を記録している.これは現代のハイテク機の値をも上回る好成績である. YS11の高信頼性は最初から得られたものではなく,運行の初期はトラブルが多発し,一時は民間輸送機としての使用を疑問視する声もあった.このような初期トラブルを,エアラインと日航製が協力して粘り強く改良した結果,1970年からはトラブルも出尽くし,高い定時出発率の記録を過去30年に渡って維持している.
4.安い直接運航費
設計時に徹底したオペレーションズリサーチにより,直接運航費を安くするように機体諸元を決定したため,競合機であったオランダのフォッカーF27フレンドシップ,イギリスのホーカシドレーHS748にくらべて経済性に優れていた.
5.特徴的な操縦性
YS11は短い離着陸距離を目標に設計されたため,機体の大きさにくらべてプロペラが大きく,フラップの開き角度も大きい.これによってYS11の操縦性,特に着陸時の特性は通常の機体とやや異なり,熟練までに時間がかかるという.

YS11の開発と自動車の開発
航空機の開発と自動車の開発は多くの点で異なっている.
1.開発に必要な投資額が一桁以上異なる
2.生産数も航空機は数百機,自動車は数十万台と全く異なる
3.自動車はほぼ4年ごとにモデルチェンジするが,航空機は20年以上使用される
4.自動車は個人のユーザーによって使用されるが,航空機はエアラインによって使用される
5.現代の航空機の開発は国家の支援を得て行われる場合が多い
このように異なる点が多いため,航空機の開発と自動車の開発を直接比較するのは無理がある.しかし,日本的な開発という意味でいくつかの類似点が見いだされる.その一つは,特に革新的な設計を採用したわけではなく,既存の技術を洗練させ,細かい部分の改良を重ねたという点である.これは過去の日本車が,革新的な設計というより,従来の技術の欠点を丹念に改良して世界に広まっていったことと類似している.また,高い信頼性によって多くのユーザーを獲得していったことも,日本車の歴史と類似している.

 
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