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[部門長挨拶]

「技術者と市民の良い関係をめざして」


部門長 吉田敬介(九州大学)

 



 技術は,人類がかつて不可能と考えていたことを可能にしてきた.そしてそれは,いろいろな「もの」を生み出し,人類の暮らしを豊かにしてきた.技術者,すなわち技術を駆使して「もの」がつくれる者は,技術がわからない市民から尊敬,いや畏敬の念すら抱かれてきた.しかし,技術の進歩は技術者と市民の距離を大きくし続けた.その結果,現代ではそれまで考えられなかった状況も生まれ始めている.

 たとえばその大きな一つとして,一般市民の技術に対する興味が薄れていることが挙げられる.筆者のように教育現場にいる者は,この20年ほど「若者の理工系離れ」という言葉を聞き続けてきた.若者が技術やものづくりに関心を示さなくなったことを憂う象徴的な言葉である.しかし,よく考えれば「理工系離れ」は何も若者に限ったことではない.
 筆者は最近,洗濯機を買い換えた.新しい洗濯機が欲しくてたまらず,買ったわけでは決してない.前の洗濯機が古くなり過ぎ,洗濯槽の汚れが取れなくなったため,仕方なく買い換えたのである.したがって,新しい洗濯機は最近のトレンドである洗濯機・乾燥機一体型のものでなく,何の変哲もない廉価版の洗濯機である.しかし,その「旧型洗濯機」とて,前の洗濯機と同じく全自動洗濯機である.すなわち洗濯物を入れ,スタートボタンを押すと,投入すべき洗剤量が表示されるので,その量の洗剤を入れ,後は洗濯終了まで待ち続ける.洗濯終了ブザーがなったら洗濯機のフタを開けて洗濯物を取り出す.確かに洗濯物はきれいになっている.しかし,どんなプロセスで洗濯物がこのようになったかを我々は知ることができない(以前のものは,脱水時以外なら洗濯槽内だけは覗けたが,それすら最近は「安全」のためにできなくなっている).
 洗濯機はちょうど筆者が生まれた頃から普及し始めたため,筆者は母親から「洗濯とは大変な作業だったんだよ.それが洗濯機という便利なものができたおかげで,お母さんたちは大変楽になったんだよ.」という実体験ベースの教育を受けることができた.また,筆者自身もちょっとしたものは手洗いした経験もあり,「この衣服を洗濯するには,洗剤をどのようにつけ,どのように洗い,どのように濯げば効果的か?」などと考えねばならぬ状況に出くわした.「これを自動でやってのける洗濯機を作る技術者ってすごいなあ!」と当時思えたのは,これらの経験を持っていたからだと思う.が,今ではその私ですら,いや,母ですら何の疑問も驚きもなく,「洗濯とは洗濯機を使ってやるものである」と思うようになっている.どうやったら汚れが良く落ちるか,などを考えることは,日常生活で全くなくなっている.このような環境の中で,もはや一般市民は洗濯機を設計・製作している技術者の姿など想像にも及ばないであろう.そして,これは家電製品など身の回りの製品に限らず,自動車,飛行機,エレベータ,…,など,現代社会の至るところで見かける光景である.某メーカのかつてのキャッチフレーズに「すごい技術を簡単に…」というのがあったが,実際にそういう状況が実現しつつある現代では,技術者に対する尊敬や畏敬の念など浮かんでくるはずもないということであろう.

 このように,技術や技術者に対する関心が薄れる一方で,市民の間には技術や技術者に対する不信感がますます強くなっている.機械装置の不具合により市民の生命や財産に重大な損害を及ぼす事故が毎日のように報道され,技術者に対する非難がなされれば,このような不信感が生まれてくるのは仕方なかろう.筆者には,このような報道を目の当たりにすると「マスメディアのその場限りの犯人探しのような報道では事故の教訓は活かされない.技術者が萎縮してしまうだけである!」と思ってしまうが,次のような例が思い浮かぶと,その勢いは落ちてくる.
 食品の包装やラーメン屋の謳い文句に「本品は化学調味料を使っていません.天然の味を大事に….どうぞ,安心してお召し上がりください.」という文言を最近よく見かけるようになった.調味料とは味を良くするために添加するものであり,それによって味の良し悪しが変化することは理解できるが,安心と一体どんな関係があるのか筆者には理解できかねる.が,それは市民側に存在する「化学調味料」への漠然とした不信感に他ならない(一時期,いわゆる化学調味料の安全性に対する疑問が唱えられた時期もあったが,今では一応の決着を見ている).
 では,一方の調味料メーカ側はどうであろうか.「化学調味料のどこが悪い!?」と反論していようと思いきや,「うちの調味料はうまみ調味料です」「うちの調味料は世間から化学調味料と呼ばれますが,これは天然のものを微生物で醗酵させて作るので,いわば天然調味料です.」となど説明している.「うまみ調味料」は確かに公的に認められている用語ではあるが,屋上屋を重ねるような用語であり,筆者には極めて不自然に聞こえる.それより,「化学調味料」ではなぜ悪いのか? それとも,「化学」という言葉に悪いイメージがあるのだろうか? 化学がそんなに悪ければ,ノーベル化学賞だのといった賞の受賞者は市民からあまり歓迎されないはずであるが,全くそうでない.
 要するに共通な考えがそこにある.すなわち,「技術者により作られる人工物とは危険で不安なものである」という漠然としたイメージがその食品や調味料に付着するのを嫌っているのである. 「化学」という単語はこの場合,単なる象徴的な意味でしかない.みそや醤油は,古代とはいえ技術者により生み出され,かつ決してGlobalなものでない人工物のひとつであるが,にもかかわらず市民はそれを生活の中に受け入れてきた.その一方で,現代の技術者が「化学」的に生み出した人工物に対して市民は受け入れに抵抗する.確かに,みそや醤油は長い時間をかけて市民権を得たものであり,化学調味料をそれらと直接比較することは些か不公平かも知れないが,少し前までなら「技術革新」という言葉で抵抗なく受け入れられた新技術や製品が今では簡単には受け入れられなくなっており,その根底には現代市民の技術不信と技術を駆使して「もの」をつくる現代技術者への不信感がある,と考えるのが現代技術者として重要ではないだろうか.

 要するに,技術・技術者への無関心と不信感は「技術と市民の関係」という観点から見れば根は同じである.すなわち,これらは技術の進歩に伴って自然に生じる必然的な結果であり,そのまま放置していれば,無関心も不信感も技術の進歩とともにさらに拡大し,最終的には技術不要論が噴出してくる.そして,再び技術と市民の間の距離が近くなるのであろうが,もしそのような事態が出現すれば,おそらくそれまでに技術者・市民双方に多大な損害が生じているであろうし,それは両者にとって大変不幸なことであろう.このような状態の出現は何としてでも阻止すべきである.もちろん,真の意味でそれが阻止可能なのは市民のはずであるが,市民は技術者からの情報提供がなければ何も判断できない,否,既にそのような状況まで技術が進歩してしまっている.言い換えれば,文明社会の進展の中で市民が正しいまたは妥当な判断を可能にするためには技術者の市民に対する説明力が不可欠である.
 日本機械学会の英語名称は「Japan Society of Mechanical Engineers」,すなわち「日本技術者協会」と訳してよいものである.この意味をもう一度考え直し,本会が単なる学術研究団体としてだけでなく,技術者が市民に理解され,ひいては技術者の地位向上につながるような活動を行う団体でもあるべきと筆者は考える.中でも「技術と社会」部門,すなわち本部門こそが技術や技術者と市民の距離を近づけ,「技術者と市民の良い関係」を構築するための具体的活動の提案と実践を担うべきと考える.各位の更なるご協力・ご参画をお願いしたい.

 





     

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日本機械学会
技術と社会部門ニュースレターNo.18
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