後輩へのメッセージ
"教育は学生のためならず"
これまでの教育と研究を振り返って
安田 仁彦
愛知工業大学
1.はじめに"情けは人のためならず"という成句がある.人に情けをかけておけば,めぐりめぐって自分によい報いが来る,という意味の成句である.私は"教育は学生のためならず"を実感している.いい学生を育てることによって国が発展し,めぐりめぐって自分によい報いが来るという,そういう高邁な話ではなく,自分に直接実利があるという,きわめて世俗的な意味での実感である.
2.講義が生んだ実利
受講した学生がどう評価しているかは別にし,これまで過ごしてきた名古屋大学で,私は講義にまじめに取り組んできた.講義のできは,準備にどれくらい時間をかけたかによるといわれる.私は,講義の準備にじゅうぶん時間をかけてきたつもりだ.
講義ノートの作成にあたって,私は,ワープロが普及し始めたかなり早い時期から,これを重宝した.私の講義準備のやり方はこうだ.参考資料から抜き出して自分のことばに置き換えた文章,独自に考え出したこと,新たに計算した結果などを,順序はあまり気にしないでワープロに入力する.つぎに筋道が立つように,これらを並べ替え,整理する.ワープロはこのような作業に向いている.講義の直前まで全体を見直し,その内容が頭に残っているうちに講義に臨む(少なくとも,新しい科目の初めの数年はこうする).ここから先が大切だと思っている.講義内容を文章として書くことと口頭で説明することの間に,どこか違いがある.書くときは気にならなくても,口頭では不自然で話しにくいと感じる部分が講義ノートの中に出てくる.そこで講義が終わってから,記憶が新しいうちに,不自然と思った部分や質問のあった部分を書き直す.講義が終わってほっとしているときに,来年のために,終わった部分の講義ノートを見直すのはきつい作業であるが,努力して習慣づけた.
このようにして,毎年,講義ノートを改善した.初めの数年は,講義ノートは,1年ごとに内容が大幅に異なることがある.昨年なぜこんなことに価値を感じたかと,われながら不思議に思ったことも再三ある.こんなとき,この科目に関して,自分は成長したのだと思うことにしている.何年か経つと,講義ノートの変更が少なくなり,自身の成長が止まる.
自身の成長が止まったと感じる頃,出版社に出版を持ちかける.こんなやり方でいつのまにか,「振動工学」,「機構学」(いずれもコロナ社)など,自分では思いもよらない冊数の著書が出版された.一冊の著書を書くのに,どのくらい時間をかけるかと聞かれることがある.答えはこうだ.その著書に取りかかってからの時間という意味では,5年,10年あるいはもっと時間をかける.しかし執筆のため特別に費やした時間という意味では,どの著書にもわずかな時間しかかけていない.
これまで出版した著書は,幸いにも多くの読者を得た.おかげで,家族に文句をいわせないで,サラリーマンの平均の小遣いより多めの小遣いを手にしている.まじめに講義をして,それが結果的に実利を生んでいるのだ.
3.学生実験が生んだ論文
教育にまじめに取り組むという心がけは,研究面でも,私に実利をもたらしてくれた.その実利にありつくこととなったのは,機械力学の研究室に勤めるようになってまだそれほど経っていない頃である.学生時代を材料力学の研究室で過ごし,博士の学位もこの分野で取ったので,機械力学の分野で,新しく研究テーマを見つける必要に迫られていた.この頃,研究テーマになりそうなことを思いつき,意気込んで文献を調べるとすでに誰かがやっていて落胆するという日々であった.研究テーマを見つけることの難しさを思い知らされていた.
こんなとき,学生実験のテーマの見直しが各研究室に要請された.自分の研究室の担当分は,これまでやっていたテーマをそのまま継続することも可能であったが,学生の感想から,別のテーマにした方がいいと思った.新しいテーマを立ち上げることは骨が折れるが,教育効果を考えて,変更することにした.はりの振動実験をやることとし,細長い鋼板を用いて,はりの振動実験の装置を作った.
予備実験で共振曲線を求めた.このとき思いがけない現象に出会った.外力の振動数がはりの固有振動数に近いときに共振することは,教科書が教える通りであったが,これ以外の何箇所かの振動数のところでも大きな振動が発生した.そこでの振動は,目で見ても,また振動に伴う音を聞いても,通常の共振時の振動と明らかに違った.実験を何回か繰り返して,同じ振動が発生した.はりという,振動系としてごく基本的なものに発生するこれらの振動を,これまで誰も経験しなかったのだろうか.半信半疑ながら,観察した振動を理論的に解析し,これが,超分数共振や結合共振といった,非線形振動の一種であることを確認するまでに時間はかからなかった.自分にとって,現実の系での非線形振動との初めての出会いである.文献を調べても,はりにおいて,この種の非線形振動が発生したという事例はあまり報告されていないようであった.このときの実験結果と理論解析の結果をまとめたものが,後に機械学会論文集に3編の論文として掲載された.
はりの振動実験を,完全に学生実験のためだけに始めたといえばうそになる.心中ひそかに期するものがなかったとはいえない.しかしはりの振動実験を実際に行うことになった直接の動機は,学生実験のテーマの見直しであった.教育のために始めたこの見直しが,3編の論文という,当時の自分にとって大きな実利を生んだ.
4.実験重視の研究スタイル
はりの研究の後,二匹目の泥鰌(どじょう)をねらって,対象物を,板や殻などに変えて振動実験を行った.幸運なことに,ここにも泥鰌がいた.対象物を変えるごとに,概周期運動,回転様式の振動など,いろいろな新しい非線形振動に出会った.カオス振動という大きな泥鰌ももぐっていたのに,目前にしながら,これは捉え損ねた.板や殻において,後に,カオス振動の発生が報告されるのを見て,口惜しい思いをしたことを忘れられない.
はり,板,殻などよりもっと基本的な対象物として,弦や膜がある.はり,板,殻について一連の研究を終えた後,ものは試しと,この基本的な対象物を取り上げて振動実験を行った.驚いたことに,かえって興味深い非線形振動が発生した.一般の構造物では隠れてしまうような特性が,基本的な対象物であればあるほど,それが強調され,振動現象として興味深いものになるのであろうか.
学生の教育のために始めたはりの振動実験が,連続体の非線形振動という,広い世界へ導いてくれた.はりの研究を経験するまで,自分の研究スタイルでは,先に理論があった.実験を行うにしても,理論結果の精度を確認するためのものにすぎなかった.はりの研究で初めて,先に実験で現象を見つけ,後から理論づけをするという研究スタイルがあることを知った.
学生実験のテーマの見直しが,自分の研究スタイルを,理論主導スタイルから,実験重視スタイルへと変えてくれた.これは,生涯にわたって私に大きな影響を与えた.このスタイルを知ってからは,研究テーマを見つけるのに,以前ほどには苦しまなくなった.後に教授に推薦されたのも,この研究スタイルから得た,連続体の非線形振動に関する成果のおかげと思っている.学生の教育のために作成した実験装置のはりに,私は心から感謝しなければならない.
5.実用研究における実験重視の研究スタイルの効用
最近の大学では,上で紹介したような基本的な対象物だけを相手に研究を続けることは,許されない雰囲気になっている.そこで実用的な研究も,できるだけ行うように心がけている.ここでも,実験重視の研究スタイルが有効であることを何度か経験した.最近の一例を紹介したい.
ある企業から,インパクトダンパに関する共同研究の話が持ち込まれた.従来のインパクトダンパと異なって,衝突体をゴムで作ったら,軽くて制振効果の大きいものができたので,そのメカニズムを明らかにしたいという.いまさらインパクトダンパでもあるまいと思ったが,とにかく実験をやることにした.
実験装置を作って,高速ビデオカメラでインパクトダンパの挙動を観察した.いわれれば当たり前であるが,高速ビデオカメラによる観察の結果,衝突体は,衝突体自身が弾性変形しながら容器にくっついた状態と,衝突体が壁からはなれている状態が,それぞれ有限の時間保って繰り返されることがわかった.これがわかれば,これ以降の解析は必然的である.衝突体をばね質点系で置き換えてインパクトダンパ全体のモデルを作成した.このモデルに基づいて,制振のメカニズムを検討した.その結果,このインパクトダンパの制振の本質は,従来型のインパクトダンパでいわれている,衝突によるエネルギー損失ではなく,衝突体がくっつくか離れるかによって振動系としての自由度が変化し,結果的に共振振動数が変化する効果であること,また"インパクト"を伴わないとき,インパクトダンパは衝突体の弾性に起因してダイナミックダンパとして機能することなど,"いまさら"の対象物から,思いがけないメカニズムを知った.実験主導でなければ思いつかない,おもしろいメカニズムだ.
6.おわりに
昨年名古屋大学を退官し,いまは愛知工業大学に勤務している.私学の状況から,ここではこれまで以上に教育に力を入れる必要性を感じる.これからも準備に時間をかけて教育するつもりだ.実験重視の研究スタイルを教えられるような大きなことは期待できないにしても,教育にまじめに取り組むことによって,結果的にどんな実利がもたらされるか楽しみだ.