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計算力学部門功績賞をうけて
山本善之
東京大学名誉教授、東京電機大学名誉教授
機械学会100周年という記念すべき年に計算力学部門長尾田十八先生より功績賞を頂き、誠に光栄に存じております。表彰委員会委員長松本洋一郎先生の功績賞理由のご説明に、1972年の日本学術振興会-NSF主催のマトリックス法に関する第2回日米セミナー、および1996年の第19回国際理論応用力学会議の開催がございましたので、日本の計算力学の発展と関係の深い日米セミナーについて紹介いたします。
現在では計算力学関係の国際会議も毎年幾つもありますが、国際的な会議も、日米セミナーのようにローカルなものが主で、それも年に1つか2つであったと思います。
「計算」に対する学問的評価が低く、米国の友人が「数値計算はlook downされる」と嘆いていました。1972年は、経済的事情が現在と全く異なり、日本人が国際学会に参加することは非常に困難でした。円ドル交換レートが1ドル360円から1ドル300円程度に上昇したばかりであり、また筆者の教授としての月給が10万円位、円建ての航空旅費は現在より高い当時ですから、渡米することは大変でした。
これより先、1969年に第1回日米セミナーが、日本代表吉識雅夫東大名誉教授、幹事東大生研山田嘉昭教授、米国代表Cornell U.のGallagher教授(のちClarkson U.学長)として、日本鋼構造協会のサポートを得て東京で開催され、米国の有限要素法関係の学者が大挙して来日しました。日本人の参加者には、このとき初めて有限要素法あるいは計算力学の洗礼をうけた方が多かったことと思います。美人の夫人同伴で参加したOden教授(U. of Alabama in Huntsville、のち U. of Texas in Austin)が研究面でも目を引きましたが、当時はまだ無名に近かったはずです。このとき日米セミナーのProceedingsの出版を引き受けたのが、彼が国際的名声を上げる契機になりました。当時の有限要素法はまだ信頼度が低く、「梁状物体の有限要素解析と梁理論が一致するので、この有限要素法は実用になるだろう」などというような時代でしたから、機械のひとは、航空分野で発達した有限要素法に関心を示さず、機械分野から論文を出したのは山田教授のグループだけだったように思います。このとき日本のこの方面の「基礎的研究」が米国さらに世界に認められ、その翌1970年ベルギーで開催されたこの方面のIUTAMシンポジウムに日本からも招待されました。当時、計算力学の今日の隆盛はとても予想できませんでした。
この成功により第2回日米セミナー開催へと話が進みました。そのため1969年のセミナーが「第1回」と呼ばれることになりました。筆者が日本代表、米国代表はClough教授(UC Berkeley、専門は建築)として、Berkeleyで開催されました。日本から、学位を取ったばかりの横内教授(電通大)、大坪教授(東大船舶海洋)、半谷教授(東大生研)ら若手研究者が参加されたと記憶しております。このセミナーのProceedingsの出版もOden教授が引き受けました。このとき、日本の有限要素法研究全般が米国で認められました。我われも、米国のプログラムNASTRANに関する講演を聞いて驚いたことを思い出します。その後Oden教授は日本との関係が深まり、彼も計算力学部門功績賞を受賞したはずです。このセミナーにも日本の機械関係の参加者は山田教授のグループ、宮本博教授(東大精密)および東洋工業の桐岡氏のグループだけでした。振動解析の論文を発表したBathe博士(UC Berkeley、のちMIT機械)も、学位を取ったばかりでした。
筆者はそのときの論文をもとにして、山田善一教授(京大土木)との共著「マトリックス法の誤差論」の前半「有限要素法の誤差論の基礎」を書きました。
第1回日米セミナーに提出した筆者の論文の兄弟ともいえる論文「解析解を用いた有限要素法」が日本機械学会論文集に掲載され、共著者谷口雅春君とともに1973年に日本機械学会論文賞を受けました。これは、有限要素法分野では初めての受賞であったように思います。1988年には、有限要素法の基礎研究が認められて、日本学士院賞を受けました。しかし、その後固体力学の分野では、有限要素法あるいは計算力学の世界が「解析」から「便利さ」に移りましたので、筆者の出番はなくなりました。
筆者は1964年に東大船舶から新設の舶用機械工学科に移りました(1968年、船舶に復帰)。その最初の講義(雑音理論など)を聴講してくれた学部4年の学生であった小林敏雄教授、および第2回日米セミナーの宮本論文の共著者で当時学位を取ったばかりの白鳥正樹教授と一緒に功績賞を受けたのは何かの因縁と思います。
1965年の秋、共同利用の大型コンピュータHITAC 5020が東大で正式にオープンしました。この機械は1号機でしたのでバッグが多く、オープン前長期間デバッグのための試運転を行ない、試用に供していました。これは現在のパソコンより能力の低いものであり、また大企業にはすでにIBM 7090などの大型コンピュータがありましたが、このときから全国の大学関係者が「計算」へ傾斜し、教授も学生もFORTRANの勉強を同時にスタートしましたので、1965年は「計算力学元年」というべきでしょう。
計算力学部門の一層の発展を祈りつつ筆を置きます。