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2022/8 Vol.125

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日本はものづくりで勝てないのか!?

第8回 戦後のものづくりへの思い

大学と学会そして産業界の強い思い

明治維新に匹敵する波乱の時代が戦後の昭和二十~三十年代である。欧米に追い付こうとした明治以降の富国強兵策が脆くも破綻し、太平洋戦争で日本の多くが焦土と化してみじめの敗戦となった。この焼け跡から昭和二十六(1951)年、「第1回塑性加工研究会(世話人・鈴木弘(1))」が日本機械学会内に発足し、その後昭和三十六(1961)年「日本塑性加工学会」へと発展し、現在に至っている。

昭和五十六(1981)年、昭和天皇からお茶のお招きを受けた席上で、福井伸二(2)は日本の金属加工の発展の“思い”を次のように語っている。「私は昭和七(1932)年から金属板を素材料とする基礎研究を故大河内正敏博士のもとで始めることができました。戦後になりますと民生用の応用が盛んになり、特に自動車のボディが大きな目標の一つとなりましたが、『ボディに使う薄鋼板を造るなどは不可能、加工技術は米国に絶対かなわぬ』との意見が大勢でございました。昭和三十五(1960)年以降の進歩はご承知の通りで、瞬く間に世界一に達しました。もう一つは冷間鍛造を、昭和二十五(1950)年頃から多くの協同研究者と基礎研究に努め、その成果は三十年頃から自転車業界、三十五年頃から自動車業界にも取り入れられて行きました。その後の進展は、実は私も予想しえなかった次第でございます」と。話が終わってから、陛下は「素材料がよいと言うことだね」と尋ねられ、福井は「今回、陛下に素材料がよいとのご認識を頂いたのは誠にありがたいこと」と感想を述べている。

鉄鋼産業の飛躍

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