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2018/9 Vol.121

【表紙の絵】
何でも作るくん
田中 雄惺くん(当時8歳)
何でも作るくんが何でも人が作りたいぶひんを出しかんせいまで作ってくれる。

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機械遺産が語る日本の機械技術史

第7回 鉄鋼鉱山機械

図1 ラック・ピニオン機構を用いた送風水車の模型

はじめに

渡来人によってわが国に鉄(素材)がもたらされたのは、紀元前3世紀(一説では紀元前8世紀)頃とされている。その後、紀元5世紀頃になると、“野たたら”を用いた直接製鉄法が伝来した。一方で同じ時期、青銅器の製作技術ももたらされており、これは主に祭祀に用いられることになった。先行する他の文化圏では、鉄器製造技術を手中に収めた地域が、周辺の青銅器文化にとどまる地域を征服し覇権を握っていた。しかし、この世界的な動きとは異なり、日本は青銅器文化と鉄器文化がそれぞれ別の役割をもって、ほぼ並行して存在した珍しい国である。

701年になると、大宝令によりわが国最初の鉱業法規の成文化と、製鉄業の奨励がなされ、武器、農具のほか、針・釘など日用品への普及が進んでいった。ただし、この時代の鉄器は非常に貴重で、個々人に普及したわけではなく、支配者が管理し、必要の都度貸し出すのが一般的であった。

さて、鉄の原材料となるのは、砂鉄や鉄鉱石などの酸化鉄である。これに木炭や石炭といった還元剤、鉄の流動点を降下させるための触媒となる石灰を投入しつつ送風し、炉内を高温にすることで、還元と流動化を行う。

送風には、古来“吹き差しふいご”と呼ばれる人力のものが使用されていたが、17世紀になると、生産量では出雲地域に劣るものの、技術は発達していた北日本太平洋側地域で、水車駆動の大ふいご(送風量は在来形式の4倍以上)が用いられるようになった。一方、出雲地域では水車駆動による送風機構の導入は大幅に遅れ、19世紀も後半、明治に入ってからのことである。

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