一般社団法人 The Japan Society of Mechanical Engineers

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No.188 機械工学科で学んだこと

JSME談話室「き・か・い」は、気軽な話題を集めて提供するコラム欄です。本会理事が交代で一年間を通して執筆します。


2019年度(第97期)副会長

山田 明[三菱重工業(株)総合研究所 顧問]


九州大学工学部機械工学科で学んだのは1970年代後半になる。今は福岡市西部の糸島という若者にも人気の地区にあるが、当時は福岡市東部の箱崎という住宅地にあり、一歩キャンパスを出れば定食屋、喫茶店、下宿屋などがあった。たまに上空を飛行機が通過していたが、その騒音を防ぐために防音教室というものが設けられ、一年中窓は閉じられていた。エアコンは室内にあったがその騒音はなかなかのレベルにあった。そのような環境で、機械工学科の講義として、熱力学、伝熱学、蒸気工学を故西川兼康先生から習う機会に恵まれた。講義や試験は厳しかったと思うが、たまにされる雑談には40年たっても忘れられないことがいくつかある。

その一つは、西川先生の師である山縣清先生が沸騰の研究を始めるきっかけについてだ。戦後(1945年ころ)、山縣先生が研究室でビーカーにお湯を沸かしていた時のこと、「気泡が乱雑に発生しているのではなく、時間間隔や場所に規則性がある」ことに興味を抱かれたのが、後年の沸騰研究の始まりだった。その後の沸騰研究の発展と拡大は、伝熱の専門家であれば周知のことであろう。100万kW級の発電所、ロケットの燃料系統、エアコン、電子機器の冷却など応用範囲は広い。その始まりの一つが、小さなビーカーとそれを眺める一人の教授であったことは、大きな川をずっと上流に行けば、ついには小さな湧水に行きつくことに似ている。

次に記憶にあるのは、1970年長崎造船所での蒸気タービンの事故調査(1)の話だ。連絡を受けた西川先生は、「現場を見てすぐに、これは自分の専門では解決しないと判断して他の先生(おそらく破壊力学)を推薦され、原因究明された」ということを話された。その当時は何か特別な教訓があるとは思えなかった。「事故という緊迫した現場を見て自分の専門外が原因であると見抜き、その解決に必要な他分野を指摘する」のは簡単ではないと思うようになったのは最近のことである。

西川先生の話では、蒸気工学の講義で「この講義では、蒸気表がつかえるようになればいい」熱力学の講義で「エントロピの意味を完全には理解できなくてもそれを使いこなせればいい」といわれたことも忘れられない。蒸気表やエントロピを用いることは、企業での研究開発においても極めて重要である。これほど簡潔に蒸気工学や熱力学の必要性を表す言葉を知らない。

筆者自身の思い出は、大学3年生のころ、クラスでタービン工場を見学した時のこと(1975年頃)。組み立て中の水蒸気タービンの前で引率の吉田駿先生から突然「これは衝動段か反動段か」と聞かれた。「前後の翼の形から見て衝動段だと思います」と答えたことを覚えている。水蒸気タービンの現物を前にして、自分の知識が実際に使われていることを実感できた初めてのことだった。吉田駿先生にはその後、卒論、修論、博士論文とご指導いただいた。「研究における、事前の文献調査、実験や計算での細心の注意と結果の考察、論文発表での用語の選択」などを徹底的に行うことを学んだ。心の中で何度も「ここまでやるのか」とつぶやいたことは今ではいい思い出である。

入社後、機械工学、特に伝熱学や熱力学を基礎にして、企業での研究開発に約40年従事してきた。対象は、火力発電所、人工衛星姿勢制御装置、太陽電池、熱電変換などである。もちろん、企業の研究開発は大学の勉強だけでは十分ではなく管理を含めて多くのことを学ぶ必要がある。一つの研究テーマに対する時間のかけ方も大学と同様にはできない。このような違いはあるが、学生時代に先生方から学んだことは言わば原点であり、それがあるからこそ企業で色々なことを身に着けることができたといえる。この40年間、企業、大学、学会などを取り巻く環境は大きく変わった。良くも悪くも想定外のことが起き今後も起きる。その中で、企業での研究開発に機械工学科で学んだことが生かされている。もっとも私にできるのは過去の話であり、現在と将来は若い研究者にしか語ることができない。彼らの研究開発の中に我々の経験が何らかの形で生かされれば、我々が教えられた財産を未来に引き継いだといえるかもしれない。

写真1 長崎造船所資料館(2020年4月時点では建物工事のため休館中)

 

写真2 タービンローター破片

 

参考文献

(1)山田、横川、浅山、博物館めぐり、伝熱vol.45, No.191, 2006年4月号, p.50-54