一般社団法人 The Japan Society of Mechanical Engineers

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No.192 無知の知
2020年度編修理事 品川 一成[九州大学 教授]

JSME談話室「き・か・い」は、気軽な話題を集めて提供するコラム欄です。本会理事が交代で一年間を通して執筆します。


2020年度(第98期)編修理事

品川 一成[九州大学 教授]

 


ある番組で、ウイリアム・アダムス(三浦按針)終焉の地が平戸であることを知りました。横須賀に安針塚という京浜急行の駅があり、子供のころから“按針”という名前に聞き馴染んでいたため、福岡に住んだ機会に平戸まで足を延ばして、按針の館などを見学に行ってみました(コロナ禍前)。途中で立ち寄った平戸城では、ボランティアガイドから、平戸藩に山鹿流兵学が伝来し、吉田松陰もここで学んだのだとの熱心な説明を聞きました。私の通っていた高校の初代校長の吉田庫三が、松陰の甥であることから、ここでも平戸と横須賀との縁を感じた次第です。ただし、2015年の大河ドラマ「花燃ゆ」では、庫三の母である杉家の長女千代が登場しませんでしたので、かなりマイナーな話かもしれません。

 

明治維新のエピソードは好きですが、草莽崛起を唱えた吉田松陰より、どちらかというと松下村塾での教育者としての松陰先生の逸話に興味があります。門下生に何かを問われると、直ぐに答えを教えるのではなく、問答を始めたという話です。以前、 “1分間で答えを出す方法”を売りにしている学習塾の広告を目にしたことがあり、出題の意図とは別に解法だけを暗記させる塾は、大学の敵だと思っていました。大学生になっても、深く考えない習慣がついてしまう恐れがあるからです。学生が何かを理解できないときは、その事柄よりももっと前で躓いていることが多く、理解していないポイントを明らかにするために、私はよく学生と問答をします。学生にとっては厄介な教員でしょうが、松陰先生の指導が問答を繰り返すことだと知り、この方法もそんなにまずくはないのだと救われた思いがありました。

 

ここで、学生とのエピソードをいくつか思い起こしてみます。私がこれまで3つの大学、1つの高専での教育体験で得た一部です。万一このコラムを読んで思い当たった方!話題提供ありがとうございます。

結晶粒成長:学生と粒成長のしくみについて議論していると、どうもかみ合わないので、結晶粒、粒界とは何かについて問うと、結晶の概念そのものがわかっていないようでした。教科書で結晶の模式図は目に入っているのですが、真剣には見ていなかったわけです。そこで、ホワイトボードに原子が並んでいる図を描いてもらいました。いざ自分で書くとなると、考え込んでいましたが、最終的には境界ができる状況を体感できたようです。卒論発表直前の練習で、“やっとわかりました!”と笑顔で言ってくれるのはありがたかったですが、もっと早く問答をしておくべきでした。

結晶配向:これは上記の結晶と関連して、配向について別の学生と議論をしたときにわかったことです。配向の意味について問答を続けていくと、対象が一つでは揃うものもないというところまで進みました。次に何が揃うのかという問いに対して問答が続き、結局、揃うのは“方向”という理解にたどり着きました。しかし、“方向”というのは初めから存在しているような思い込みがあり(矢印を見て進む方向がわかるのは、矢の飛ぶ方向を知っているから等)、本来は定義が必要ということを知ります。最後に結晶の方向とは何かという問いに対し、すでに習っていたミラー指数と結びつけることができ、やっと理解していました。

相対密度:「多孔質体の相対密度は“1-気孔率”に等しい」との説明はわかるようですが、“見掛け密度/真密度”との定義は理解困難のようで、学生と3時間くらい問答をした後に明らかになったのは、密度そのものの概念を理解していなかったことです。密度を“質量÷体積”との割り算で暗記していたようで、暗記だと定義式もすぐ忘れる傾向があるようです。そこで、昔習った“人口密度”の定義は?単位は?意義は?と問いかけ、割り算と捉えていると意義まで到達できないので、“○○当たり”という表現を思い出してもらいました。思考には言葉が重要という良い例かと思われます。

鏡の像:中学校時代に読んだペレリマンの『おもしろい物理学』に、「鏡に映った自分の姿の上下は同じだが、左右は逆さまになるのはなぜ?」という問いがありました。これは言葉の定義の問題だという結論を自分の中で出していましたが(上下は地球が基準、左右は自分が基準)、これを学生に問うと、“目が2つだから”などという珍答もあり、思考の訓練として良いと思っていました。ところが、近頃、人気番組“チコちゃんに叱られる”で同じ問題が出され、チコちゃんの答えは、「わからない」でした。バックミラーで見える後ろの車のウインカーが、左右どちらを指しているかを人間は瞬時に正しく判断できるが、心理学的あるいは脳内でのしくみはよくわかっていないとのことでした。奥が深かったです。

 

さて、庫三先生の話に戻りますが、母校の創立100周年記念誌によりますと、松陰先生が亡くなられた後にお生まれになったためか、教育法に関して接点は見いだせなかったとのことです。しかし、私が高校の時の担任の先生は、倫理社会の授業の中で、問答法のようなことをされていたことを覚えています。哲学の世界では、ソクラテスの対話に始まり、常識化しているのでしょう。先生は教科書のトピックを少し説明された後、誰かを指名し、「○○君、ここのところどうなっているのかな?」という質問をよくされていました。私は(おそらく他のほとんどの生徒も)、何を質問されているのかもわからないような状況でした。もう一度、受けてみたいと思うのですが、“白熱教室”のように、事前に何冊も勉強しておかないといけませんね。