一般社団法人 The Japan Society of Mechanical Engineers

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No.194 世界で2番目に大きな国に滞在して
2020年度副会長 井原 郁夫[長岡技術科学大学 教授]

JSME談話室「き・か・い」は、気軽な話題を集めて提供するコラム欄です。本会理事が交代で一年間を通して執筆します。



2020年度副会長 

井原 郁夫[長岡技術科学大学 教授

 


コロナ禍の折、人の移動は制限され、海外渡航も許されない日々が続いています。国際会議はオンラインでのバーチャル型が定着しつつありますが、オンラインの限界も見えてきました。コロナ禍以前は海外渡航が日常的であったため、その恩恵を意識することはありませんでしたが、コロナ禍の今、海外に出向いて異質な人や文化に直接触れることがいかに大切で有意義であったかを今更ながら認識しています。それもあり、ここでは海外渡航に関わる事を書かせていただきます。

さて、表題が指す国はカナダです。1996年、私のカナダ赴任が決まりVISA関連手続きのために赤坂にある同国大使館を訪れたとき、最初に目にしたのが大使館パンフレットの表紙に掲載された「世界で2番目に大きな国」の文字でした(今考えると、いかにもカナダらしい表現であり、個人的には好感を持っています)。それから程なく、私は1997年から約2年間、カナダのモントリオールに赴任しました。そこでの経験は私の大学教員としてのキャリア形成に極めて大きな影響を与えるものとなりました。僭越ですが、カナダ滞在の一端を当時のエピソードを交えて紹介させていただきます。

 

きっかけ

学位取得後、その研究の先達の方から海外に行くことを勧められました。英国の大学、米国の研究機関、カナダの研究機関が候補に挙がり、最終的にはカナダのNational Research Council of Canadaという政府機関のIndustrial Materials Institute (IMI/NRC)という研究所に赴任することを決めました。カナダ政府のフェローシップに応募し採択されたのが理由です。当時は文科省の在外研究員制度を利用して海外の大学等に滞在するのが主流であったようですが、私はそれとは違うルートを選択しました。誤解を恐れずに言えば、日本国のサポートではなく相手国のサポートでの赴任という形となり、結果的にはそのことが、現地での職務遂行上のモチベーション向上に繋がりました。日本からのサバティカルや客員という扱いではなく、適度な拘束とプレッシャーの中で仕事ができたことが、色んな意味で功を奏したように思います。当初の滞在予定期間を延長し、当時としては珍しく約2年間の赴任を許されたことも幸運でした。

 

Welcome to Quebec

IMI/NRCのあるモントリオール(正確にはその近郊の町)はカナダのケベック州にあります。私の赴任初日、所属長らしき人からの最初の言葉が「Welcome to Canada」ではなく「Welcome to Quebec」であったことを鮮明に覚えています。当時のケベック州はカナダからの独立を巡って1980年と1995年に住民投票が実施されたこともあり、連邦政府とは一線を画した雰囲気がありました。ケベック州の公用語が仏語であることは知っていましたが、日本人の私には理解しづらい複雑な心情がカナダ国民には根強く存在していることを、その後の2年間の生活の中で垣間見ることになりました。「Welcome to Quebec」は軽いジョークのように聞こえますが、ケベック州民の微妙な想いを込めた重い言葉であったかもしれません。

 

英会話

多くの日本人にとって、初めての海外赴任では英会話は不安要素の一つです。私にはその克服の術を語ることはできませんが、不思議なもので、仏語が公用語の地に住んでいると英語で会話ができることに安心感を覚えました。IMI/NRCでも仏語が公用語でしたが、私の所属チームは英語を使っていました。これはチームリーダがMcGill大学(モントリオールにある英語系の大学)の教授を兼任しており、彼が仏語を話せなかったためです。2年間の滞在で私の英会話は多少上達したようですが、それは次のことがポジティブ要因であったかもしれません:(1)職場で私は唯一の日本人であった、(2)自宅は日本人の多い地区から離れた場所にあった、(3)妻と子供3人(1歳、5歳、7歳)が同伴しており、現地住民との親密な関係を築くのを余儀なくされた、(4)妻が日本人離れしたオープン気質の持ち主であった、などが挙げられます。(1)については職責を果たすために、(2)(3)については異国での家族の生活を維持するために、自分の英会話力を最大限絞り出すことが強いられ、シャイに振舞うことなど許されませんでした。当時、携帯電話はなく、インターネット環境も途上でしたので、アナログでの対応でした。外国人とのコミュニケーションという点では(4)の効果は絶大で、妻同伴の様々な場面で、私では手に負えない人間関係であっても妻が介在することで円滑になることが多くありました(妻に感謝)。このように、現地での必要性に迫られることで自然に身につく会話力もあるようで、これはバーチャル体験では得られないものです。

 

研究

当時のIMI/NRCでは実用化を目指した産学連携が強く推奨されていました。私の感覚では、実用化研究という点で当所は日本の研究機関よりも10年ほど先を進んでいたように思います。私に与えられたテーマは超音波センシングの生産プロセスへの適用に関するもので、これも北米の製造業のニーズを睨んだものでした。結論から言えば、私はこのテーマが非常に面白く、現地スタッフと一緒になって没頭し、それなりの成果を挙げることができました。IMI/NRCでの滞在を通じて、当該研究分野の欧米のトレンドを日本に先んじて把握できたことと、研究上の人脈を開拓できたことは大きな収穫でした。それらは帰国後の私の研究遂行における大きな糧となり、大学での教育においても極めて有意義で役立つものとなりました。もし同じ時間をカナダでなく日本で過ごしていたらなら、それだけのものは得られなかったと思います。

 

海外渡航のすすめ

コロナ禍以前より日本では若者の海外離れを懸念する声があります。実態は定かではありませんが、私の周囲でも海外赴任を希望する若手研究者は減っているように感じます。私のカナダ滞在中、必ずしもハッピーな事ばかりではなく、人生初の手術を受けたり(急性盲腸炎)、自然災害にも遭遇したり(Ice Storm 1998)、長距離ドライブ中に車のエンジンが大破するなど様々なトラブルに巻き込まれました。しかし、それらの全てが一期一会の出来事で、オンラインやバーチャルでは得られない貴重な体験であったと思います。ICT技術の進歩は時空の隔たりを埋めてくれますが、それでもなお、現地に赴いて時間と労力を費やすことには計り知れない価値があり、その意義は今後も変わらないと思います。月並みですが、若手の技術者・研究者の方々には、コロナ禍が終息した折には、少し無理をしてでも海外に出られることをお勧めします。